女のプライドと結婚式のドレスについて
男性から「女はドロドロしている」「女は怖い」ことを期待しているような発言をされるときがある。
実際はそんなことはなく、少なくともわたしの周りでは平和である。マウンティングしてくるのは男性も同じだ。
ただ一つ言えるのは女性同士には、見えないプライドというものが存在する。
だれも表情にはピクリともださないが、確実に誰しもが持つものだ。
むかしどこかでこんな話を聞いたことがある。
大手セレクトショップには必ず結婚式の参加者向けのパーティードレスが陳列されている。大体ラック一つ分だ。その周りにヒールや煌びやかなクラッチバッグなどがディスプレイされているのである。
季節によってがらりと変わるラインナップだが、ここだけはアイテムの雰囲気も変わらない。単純な話で必ず売れるからである。
なぜかというと「女性は同じ衣装着ないから」だという。
結婚式への参加は友達や知人が招待してくれるパターンがほとんどだ。
共通の友達も多く、あるときの結婚式の参加者が今度は結婚式を催すことになる、なんてことはざらにある。
そうなると、前回会ったメンバーに同じ衣装を見られるのは恥ずかしい気がするのだ。
結婚式は写真もビデオも多く撮られる。そこに映るじぶんの衣装が毎度同じだと、前も着てたと気付かれると想像してしまうのである。
自意識過剰かもしれない。男性には理解できない心理だと思う。
スーツやネクタイの色、靴のブランドまで細かく変えるのはよほどファッションがすきなひとだろう。
だが女性は、数多くの選択肢から自分に似合う色や形、さらにはトレンドのデザインを選ばないといけないのである。
ただ、こんなことは誰も決めていない。
ネットに書いてあるのは「肩やつま先を出すのはやめましょう」といったマナーについてだけだ。
だれも決めたわけでもないルールで、むしろTPOを弁えていれば、何を着てもいいはずである。
けれど確実に女性たちのなかにはあるのだ。
コロナウイルスで長らく延期をされていた、ともだちの結婚式に参加する前日、わたしは果てしなくブルーであった。
ともだちの結婚式に参加することは楽しみである。旦那さんはとても優しくて良いひとなので、心からふたりを祝福したいと思っていた。
しかし、わたしはものすごく不器用でヘアセットができないのである。
ヘアセットはできないし、さらにはネットで買ったドレスも気に入らなかった。
前着たドレスは嫌だし、かといって美容院のヘアセットもしたくないと言った、全くともだちには申し訳ない状況であったのだ。
なにより、あのパーティー向けのヘアメイクが好きでない。
後毛を出したり、トップをふんわりしたり、三つ編みをしてまとめたりした髪型だ。
詳しくなさすぎて抽象的な言い回しなのは、興味がないことを表していると捉えてもらいたい。
他人がするぶんには気にならないし、かわいいと思うが、わたし自身はもっとナチュラルでシンプルな方が好みなので、美容院予約したところであれをするのかという、お金を払って気に入らないセットをし一日過ごすという想像までついてしまい気が重かった。
どうせマスクをするのだからなんでもいいじゃないかと思い込もうとしたが、無理であった。
なにせ会場まで行く参加者のともだちは待ち合わせ前にヘアセットを美容院で予約すると連絡してきたのだ。落ち込みにさらに拍車をかけた。
安いネットで買ったドレス、気に入らないヘアメイクに悩みながらも、最近行けていなかった眉毛サロンに行った。
担当してくれた店員さんはクールな雰囲気の女性だった。
華奢な体型に黒のピタッとしたへそだしニットを着ていてデニムパンツ、足にはスニーカーを履いていた。
髪型は明るい茶色と黒のハイライトをしていて、カジュアルだが女性らしく彼女にとても似合っていた。
こんなおしゃれなひとは、結婚式に参加するときどんな服を着るのだろう。
わたしは好奇心が抑えられなくなり「結婚式はどんな服装をしていますか」と聞いてみた。
黙々と作業していた店員さんは花のように明るい声で「わたし、一般的な結婚式のヘアメイクがすきじゃなくて。だからいつもボリューム抑えたダウンヘアーで、黒のパンツばっかり履いていますよ」
と教えてくれた。晴天の霹靂だった。なんて自由なんだろうとうれしくなった。
そこから、その店員さんがともだちの結婚式はZARAでパーティーにきれそうなセットアップを新調して使い回していること、パールアイテムは使わず、クラッチの革のバッグを使っていること、靴は毎度変えずに使いまわすこと、さらに髪の毛をまとめるときは、ゆるいお団子で済ませていること、などを根掘り葉掘り聞き出した。
わたしがドレス選びの苦悩を語ると、大きく笑い「なんで同じ衣装を着たくないんでしょうね〜やっぱり写真に写るからですか。だれにも言われたわけじゃないんですけどね」
と言っていた。
店員さんと話をしていくなかで、わたしは新しくじぶんに合った衣装を買うことを決心していた。仕事でもふだんでもよく履くパンツで、シンプルなスタイルでいきたいと思ったのだ。
そう伝えたとき、眉毛は仕上げの段階に入っていた。
最後に店員さんが「今からだったら、まだZARAもあいてるし、アトレもあいてますよ」と教えてくれ、わたしは直行した。
ZARAには行かなかったが、結局じぶんのすきなコーディネート一式を買い揃えた。
正直ヘアセットを予約するよりもだいぶ高くついたのだが、好きではないコーディネートで出かけるよりは何百倍もましであった。
ついでに服屋さんで眉毛サロンの店員さんにした同じ質問をすると、対応してくれた店員さん2人も小物だけ変える、髪型は自分でやると教えてくれた。
女性たちは見えないプライドと戦いながらも、日々工夫しそれぞれのおしゃれを精一杯楽しんでいるのだ。
さようなら知的なひと
わたしが尊敬していた、思考の整理学の著者、外山滋比古が96歳で亡くなったと今朝ニュースで知った。
ご冥福をお祈りします。
「思考の整理学」を読み終えてからは、「本を読む本」、「英語の発想・日本語の発想」「乱読のセレンディピティ」、「知的文章術」を次々読んだ。
英文学・言語学の学者で、英語だけでなく日本語の知識や語源についてもかなり博識な作家で、理論的な日英比較が魅力であった。
なによりいちばん衝撃的だったのは、「ことばは文化である」という考え方である。
むかしは「犬に餌をやる」と言っていたのが、今では「犬にご飯を食べさせる」と表現するようになった。
時代が変わり、価値観が変わり、ことばも変わっていく。
外山滋比古の著書を夢中になって読んだものだ。
たしか思考の整理学だったかな。
じぶんと違う専門や知識を持っているひとたちと語り合うと、思いもよらない閃きがあるという章で、中国語と日本語専門の友人とで月に一度語り合うと書いていた。
その約30年後に出版された、「乱読のセレンディピティ」では、かつて語り合っていた友人のひとりは亡くなり、もうひとりは大分衰弱して動けなくなってしまったと書いてあった。当時読んでて物悲しい気分になったものである。
また三人で会えたかなあ。
無題
次を更新したら100記事目になるなあと思っていたら、更新が止まり、とうとう春を迎えてしまった。
最後の記事を書いてから、二度の大きい台風がやってきて、わたしは正社員として働き始めて、友達は結婚したり東京を離れたりして、色々変化もあった。
でも冬から続いてるこの未曾有の事態が、世界的にもわたしにとっても、いちばん大きなニュースである。
わたしは自宅勤務になり、外出自粛のため会いたいひとたちにも会えなくなった。
オンライン飲み会が流行ってるみたいだけれど、わたしは利用したことがない。便利だという話は各所から聞くけれど。
オンラインでのコンテンツとか、デリバリーサービスも流行っているらしい。
それでも「このお店、おいしいけど店員さんめっちゃ無愛想だね」とか「もうラストオーダーだって。最後なに頼む?」だとか、オフラインで、みんなとやりとりができるようになるのが、いちばんなんだけどなあ。
雪桜、だれかと一緒に見たかったな。
だれも先がわからない状態で、まるで真っ黒な大きな手にずっと追いかけられている気持ちになる。感染予防することで精一杯。
みんなは大丈夫ですか。元気に過ごしていますか。
長岡の子どもたち 3
車の窓から見えた、風で波打つ鮮やかな緑の稲穂畑を
「きれいだなあ。みんなおなじ背丈に成長するのはなんでだろう」とぼーっとしながら呟いたら、
「そりゃー同時に苗を植えるからだよ」。
ともだちのお父さんが運転をしながら、ゲラゲラ笑って言った。ルームミラー越しに、真っ黒の肌から覗く白い歯が見えた。
バカにされたとぜんぜん感じないのは、ともだちのお家に二泊三日して分かった、お父さんの人柄のおかげだろう。
おしゃべりではないけれど、わたしとともだちの話に相槌を打ちながら、ボソボソと話すひとだった。
声が小さくて聞き取れないときがあったが、ともだちはそれをぜんぶ聞き取って返答をしていた。その様子に家族ってすごいなってちょっとだけ感動した。
小山を越えた先にあったのは、波の穏やかな、きれいな海だった。
到着は朝の9時だったが、パーキングはすでに満車になりつつあった。
駐車場を探していると、けたたましく勧誘する海の家のおじさんに捕まり、「どこもたいして変わんないろ」というお父さんの独断で、半日過ごす海の家が決まった。
荷物を置き、ビーチサンダルに履き替え早速砂浜へ向かった。
ともだちのお父さんが、家にあったパラソルを組み立ててくれたとき、パラソルの柱部分のつなぎ目からパラパラと砂が出てきた。
「これいつの砂?」
ともだちが聞くと、「さあなあ。10年は開けてねえんじゃねえか」とお父さんは言い、わたしとともだちは10年前の砂かと笑った。
海水浴に来ていたのは、地元の家族連ればかりだった。
そのなかでも、ほかの海水浴場より多いと感じたのは、タトゥーがガッツリ入っているひとたちがいたことだ。
見慣れない光景に驚いて、タトゥーが大丈夫な海なのかお父さんに尋ねたが
「知らん。おれ久しぶりにきたから」と言って遠くを眺めていた。
たしかに。どうでもいいか。
わたしたちは、ともだちのお母さんがこさえてくれた、小さく切られた甘いとうもろこし、冷えたどら焼きやスナック菓子を黙々と平らげながら、海に浮かぶカラフルな浮き輪と、はしゃぐ子どもたちを眺めていた。
泳ぎと休憩を繰り返し、ラリーの続かない、下手くそなビーチバレーをともだちとふたりでしたり過ごしていると、あっという間にお昼がきた。
ともだちが買ったイカ焼きは塩加減がちょうどよくおいしかった。
散々海水を飲んだのに、さらにしょっぱいものを食べたくなるのはなんでだろう。人体の不思議である。
それからわたしはお昼を食べながら、数少ない家族旅行で、江ノ島へ泳ぎに行ったときのことを思い出していた。
父がいる方角へわたしは浮き輪をつけ、泳いでむかった。そのとき突然高波が上がり、わたしは波間に飲み込まれ、くるっと一回転してしまったのだ。
なんとか自力で海面から顔を出したものの、パニックになっているわたしを、父はゲラゲラ笑ってただ見ていただけだった。
今思うと浅瀬だったし大人、ましては父親であるじぶんがいるわけだから、安全であることは承知で笑っていたのかもしれない。
他人の家族と比べるのは、意味がないことだ。
けれど、ともだちのお父さんだったらきっと笑わず、すぐに抱きかかえて助けてくれただろうなと思う。
わたしは、岩のりが山盛りのったラーメンをすするふたりを交互に見た。
「そういえばさ」と。
どちらかが思い出さなければ話題に上がらないような、当事者からするとどってことない、けれど他人からはキラキラして見える記憶が、心の奥深くにたくさん埋まっているんだろうなと思った。
ひとしきり遊んだ帰り道、ともだちが「新鮮な枝豆を買って帰ろう」と言ってくれた。
わたしが枝豆をえらく気に入っていたのを、覚えていてくれたのだ。
たくさんの枝豆をお父さんが買ってくれ、ともだちのお母さんがぜんぶ茹でてくれた。好きなだけ詰めていいよとお母さんは言ってくれ、ともだちと一袋ずつ詰めて帰ることにした。
わたしの母は枝豆が大好きなので、今までのお土産でいちばん喜ぶだろうと思った。
この匂いと味を、持ち帰って共有できることが嬉しかった。
長岡から帰ってきた夜、リビングで荷物を解いていると、父に「どこか行ってきたのか」と聞かれた。
うちの父は、だれがどこへ出かけたとか、どこへ旅行したかとか、興味がなく一々把握していない。なので、こちらからもとくに報告はしないのだ。
わたしが長岡出身のともだちのお家だよと答えると、
「ああ、そう。おれ長岡で生まれたんだよ。親父が長岡でさ」。
わたしは驚き、えっと声を上げた。
父親の故郷を知らなかったうえ、偶然にも長岡だったのだ。親子同士、無関心であることに我ながらちょっと引いた。
キッチンにいた母は知っていたらしく、
「戦時中に疎開して、そのときに生まれたんだよ。親戚との縁は切れてしまったみたいだけどね」
と言った。
父が生まれて間もなく祖父は亡くなってしまっい、さらに終戦後すぐに東京へ戻ったので、長岡の記憶はないようだった。
父は母の発言にうんともすんとも言わず、とくに話題を広げるわけでもなく、さっさと自分の部屋に戻っていった。
もしも、祖父が上京せず、長岡で暮らしていたら、地元のお嫁さんを迎え入れて、孫が生まれただろうか。
わたしの頭の中でパラレルワールドが広がっていく。
“わたしじゃないわたし”が、長岡で生まれ育って、違った形でともだちと出会い、いっしょに花火を見ていたのかもしれない。
そう考えると、こうやって、ともだちと仲良くなり長岡の花火を見ることができたのは、奇跡的な出会いである気がしてきた。
そして別の世界線のわたしは、たしかに長岡の子どもなのだと思った。
長岡のこどもたち 2
「新潟にはね、三代花火って呼ばれているのがあるんだよ」
そうともだちのお母さんがそう教えてくれた。
続けてどこと、どこと、どこだよと場所を説明をしてくれたが、ぜんぜんピンと来ていないわたしに、
「長岡は川だけど、他の花火は海と山でそれぞれ上がるんだ」。
ともだちが付け足した。
レジャーの定番スポットをすべてつかって開催するなんて、新潟のひとたちはほんとに花火が好きなんだなあと思った。
そのひとつ、海で開催される花火大会は、企業ではなく一般市民がお金を出してあげる花火らしい。すごく面白い。
「『〇〇家に今年子供が生まれました!これからも繁栄を願って!』とか、超個人的なメッセージを流すんだよね。だからさあ、その土地の人々はそれぞれ世帯で花火貯金をしてるんだって」
クックっと笑うお母さんを見ながら、わたしはなんてハートフルな行事なんだろうと思った。
一瞬の美しさのために日々お金を貯めるか、毎日の生活を豊かにするために日々お金使うか。
市民がみんなそうじゃないだろうけれど、花火貯金の存在は、地元のひとびとの根本的な価値観を知れた気がした。
二日目の花火はともだちとふたり、土手でレジャーシートとクッションをひいて見た。
もう二日目が終わってしまう。
花火が打ち上がるたび、もう終わってしまうよ、とうろたえるわたしに、ともだちは「あと、一年待ったらまた見れるよ」そう言った。
その日は花火の跡、煙までくっきり見えた日だった。
それはまるでわたしのような、終わりを惜しむ人々のためにおまけで余韻を残してくれているようだった。
二日目もフェニックスは上がった。
そもそもの始まりは、中越地震の復興祈願が始まり出そうだ。
長岡空襲を祈った三尺玉のように、国の災いが起こるたび、祈祷の演目が増えていくといのことはある意味、悲しい歴史の積み重ねである。
ただそれと同時に、毎年花火が上がるということは、ひとびとが乗り越えてきたという証だ。
長岡のひとにとって花火は「また来年もがんばろう」という背中を押してもらう意味合いもあるのかもしれないと思った。
そんなことを考えているうちに、クライマックスへ。そして今年の花火が終わっていく。
全演目が終わると、携帯のライトがポツポツと光りだした。
いつからか始まった、花火師さんへのありがとうのメッセージだ。
対岸まで、ゆらゆら、光が左右に揺れる。
信濃川に沿って、光の川が生まれる。
その光景は、あたたかくて、切なくて長岡の花火がずっと花火として存在し続けることを願わずにはいられなかった。
友達の家に帰宅して、居間で明日どの海へ行こうかという話になった。
ともだちのお母さんとお父さんが、ともだちの運転に心配をして、お父さんが運転をするから!と、ともだちは二人から言いなだめられていた。
成人女性のともだちは、ご両親の前だと中学生の女の子みたいに見える。
ともだちはやだよーべつにいいよーと言っていたが、最後は折れて「お父さんと一緒でもいい?」とちらりとわたしを見て言った。
もちろん、一つ返事である。ダメな理由なんてなにもなかった。
下品な話や下ネタは一日封印だなと思ったくらいである。
早速お父さんは地図帳を開き、メガネをぐっとおでこにあげ、まじまじと地図を見ていた。
そして、ああ、なんとなくわかったと呟きサラッとキッチンへ行った。
机にそのまま置かれた地図帳をともだちが好奇心でパラパラ開くと、
「なにこれ!廃線になった貨物線が乗ってんじゃん」
そう言ってともだちは無邪気に笑った。
長岡の子どもたち
駅の混雑、ロータリーの渋滞を車で抜けると、大きな橋が見えてくる。
真っ青な空、橋の下にはみんな同じ方角を向いた、小さなひまわり畑が広がっていた。
運転手は、ともだちのお姉さんだ。
妹にあたるともだちに話しかけるよりも、すこし高い声で「これが信濃川だよ。ここから花火が上がって、大手大橋の手前と奥で花火を観覧できるんだよ」
そうわたしに教えてくれた。
思わず「ああ、地理で習った信濃川ってこれなんですね。初めて見ました。大きいなあ」と呟くと運転席のお姉さんと、そして後部座席、わたしのとなりに座っていたともだちがゲラゲラ笑った。
それそれ。覚えててくれたなんて光栄だなあとふたりは笑った後、席はどこら辺だろうとかそんな話に変わっていった。
先週金曜日の午後、わたしは長岡にいた。
長岡出身のともだちが、花火大会の有料観覧席のチケットを取ってくれ、誘ってくれたのだ。
花火大会へ二日間も行くのは初めてである。
初日は有料席で、ともだち家族と一緒に花火を見ることになっていた。
ともだちの実家に着いて早々、ペットの黒猫がもどしたようで、お家のなかがすこし騒がしかった。
「そこにいて!汚いものお見せできない」と、ともだちに言われ、わたしはその間の抜けたハプニングの最中、玄関に立ち尽くしながらも、内心緊張していた。
ともだちが招待してくれたのはとても嬉しいし、信頼してくれているように感じられて光栄である。
だが、ひとの実家に泊まるのは初めてなうえ、わたし自身、家族同士も親戚付き合いですらもかなりドライな家系なのだ。
法事や兄の結婚式以外に、一家揃って食卓を囲まないような家族なのである。
猫ゲロ騒動で、みんなが仲よさそうなことが伝わってきて、ちびまる子ちゃん一家みたいな雰囲気に、自分が浮かないか不安になっていた。
その場の正しい振る舞いを知らなかったからである。
片付けが終わたらしく「もう大丈夫だよ」という合図に引き戸を開け居間に入ると、メガネをかけた真っ黒に日焼けしているお父さん、お姉さん、そして黒猫が居間の畳に座っていた。
お父さんと猫への挨拶をすませると、少し時間差でお母さんがお買い物から帰ってきたため、わたしは玄関へ向かった。
廊下には、ともだちそっくりのお母さんがいた。
顔はもちろんのこと、ひょろりとした体型や長い首、肩のラインなど骨格までそっくりである。
ただ違ったのは、落ち着いてポツポツ話すひとだったことだ。
ともだちとお姉さんが明るくよく喋るタイプなので、意外だった。
いらっしゃいと声をかけてくれ、さらに座敷でもあらためて丁寧に挨拶をしてくれた。
一休みした後、ともだち家族と晩御飯を一緒にさせてもらった。
それから長岡滞在の二泊三日の間、ほぼ毎食お母さんの手料理をいただいたのだったのだが、豪勢な食卓に驚かされた。
一汁一菜ならぬ、一汁五菜はありそうなくらい、テーブルいっぱいにサラダ、メイン、漬物、温菜など多彩な料理が並び、どれもすごくおいしかった。
滞在中にお母さんは梅干しを干していたので、365日家事に手を抜かないひとなんだろう。
ともだちの近況や仕事の話をふんふん頷きながら、ふいに中ぐらいの皿にのった枝豆に手を伸ばし、口に運ぶと「うまい!」と自然に声が出た。
口に入れる前に香る青々とした匂いと、噛んだ瞬間、濃い汁がぶしゅっと出てくる。
うまい、うまいと言いながらもひたすら食べるわたしに、お母さんは無言で台所へ向かい、枝豆の袋を持ってきてバザバサと皿に追加してくれた。
泊めてくれることも、豪勢な料理もだが、枝豆を足してくれたその仕草は、何よりも歓迎してくれていると感じて、わたしは嬉しくてたまらなくなった。
あたりがだんだん暗くなり、開催時間が近づくと、わたしたちは河川敷に歩いて向かった。
河川敷にはビニールシートを敷き、その上に簡易テーブルを置いて、オードブルやお弁当を突く家族連れをたくさん見た。
すこし遠くを見ると、三階建てのビルの屋上で、花火を見るために集まった人たちが見える。
ビルの外階段を、お鍋を両手で持ったひとが上がっていく。
会場にいた人々は、これから始まる2時間のイベントを最大限味わう準備を整えていた。
わたしたちはというと、筒状にした大判の敷きもの、お菓子や飲み物のペットボトルの入ったトートバッグをそれぞれ持ちながら、観覧席に向かっていた。
開催直前、大きな花火が三発、日が暮れ始めた空に上がった。
「大きい!」とびっくりしながら叫んで歩くわたしに向かって、「こんなのぜんぜん!」と後ろにいたお母さんが声をかけてきた。
すでにわたしが今までみた花火の中で一番大きい花火が上がっていたにもかかわらずである。
これからどんな花火が見えるんだろう。
プレゼントの箱を開けるときのような、期待とワクワクで胸がいっぱいになった。
長岡の花火は、企業スポンサーが花火を上げる。会社のメッセージや宣伝などが放送で流した後、花火を打ち上げるのだ。
「打ち上げ、開始いたします!」
元気な女性のアナウンスの後、ボンっと大きな、まるでスピーカーから聴こえるベースのような音が響き、大輪の花が夜空に咲く。
連続で打ち上がって空を埋め尽くしたり、細かい花火がレイヤーになって徐々に上空目指して登って行ったりと、魅せ方もバリュエーション豊富で、色とりどりの美しい花火が上がっていく。
長岡花火はそもそも長岡空襲の慰霊から始まったそうだ。
三尺玉の花火は、特にその意味があるらしく三尺玉花火が上がる前に、ウーと空襲警報のような音が流れた。
ボンっと大砲から出たような音、昇り竜のような線が空に上がり、大きく開く。
三尺玉の打ち上げはすこし遠くだったが、十分に大きさも迫力も伝わってきた。
観覧客からワッと歓声が上がり、拍手がパチパチと巻き起こった。
散り際は、まるで柳の木の葉のように垂れ下がり、徐々に光の線が夜空へ消えていく。
すごい、すごいと騒いでいると花火のパンフレットを持ったお母さんが「そろそろフェニックスだよ」と教えてくれた。
平原綾香のジュピターが流れる、かなり大掛かりな花火だそうだ。
曲のはじめ、平原綾香のブレスを合図に大きな花火が数発上がる。
川の端から端まで、花火の柱が上がっていき、空を全面埋め尽くしていく。
ムービーを撮っていたが、どこをフォーカスして撮ったらいいかわからないくらい、四方八方あがるので、途中で撮ることを諦めてしっかり目に焼き付けることにした。
花火大会初日は、あっという間に終わってしまった。
となりで見ていたともだちは、いつかわたしと一緒に行った神宮の花火大会や、ほかの人といったであろう長岡以外の花火をどういう気持ちで見ていたんだろう。
そんなことを考え、羨ましい気持ちと、ともだちの心境を想像しておかしくなった。
花火のあと、ともだちのお姉さんが「渋滞が凄そうだから、なぎのお暇を見て帰る」と言った。
お母さんがわたしたち三人分の麦茶と、フルーツゼリーを用意してくれて、二階の部屋で食べながらドラマを見ることになった。
「高橋一生ぴったりだね」だとか「原作と結構近いね」とか「ゴンぜんぜん見た目違うじゃん」なんて言い合いながらも、わたしはこの、どこかで見たことがあるフルーツゼリーを見るたび、この風景を思い出すだろうな、と考えていた。
そうやって、擬似帰省体験1日めが終わった。
旅にでる 年末年始・東南アジア編 7(ハノイシティ歩き/だれが街のイメージをつくるか)
東南アジアのなかでも、ベトナムは南北に長い国であるため国内でも寒暖差がある。
北に位置するハノイは、日本の比べたらずっと暖かいけれど、年始の時期でちょうど日本の4月くらいの気候といったところだろうか。滞在中はユニクロのウルトラライトダウンが大活躍した。
旅行前にハノイに行ったことがある友人、知人にハノイはどんなところか聞いてみた。しかし、なんとも渋い反応だった。
みんなが口をそろえて言ったのは、バイクの交通量がものすごく多いということである。
それを聞いて、ホテルはぜったいにうるさくない場所にしようと決めていた。
ホテルの立地とグーグルマップを照らし合わせ、「便利な旧市街にあって、うるさくなさそうなところ」に絞って予約したのだが、無駄な抵抗であったことに、到着してから気が付く。
旧市街の道はほとんどが賽の目状になっており、さらにわたしたちが泊まるホテルは、大通りにぶつかる角地に位置していたのである。
便利で静かな場所を選んだつもりだったが、どちらも両立させることなんて、そもそも不可能だったのだ。
立地はイメージと違ってたもののホテルスタッフはとても親切で、サバサバしたひとばかりで良かった。
自然を味わい歴史を辿ったカンボジアと対照的に、買い物とシティ歩きのハノイにすることに決めていたので、レストランや名物料理、さらにはマッサージ店まで、隈なくおすすめを聞き、そこへ行った。
どれも良いお店で満足したので、滞在先としては文句なしである。
早速おすすめのベトナム料理店に行き、お昼を済ませた。
(写真は良くないけど、とってもおいしい)
カンボジアもどれもおいしかったが、ベトナムはさらにそれを上回るのではないかと思う。スパイスの味付けや下味がしっかりされている感じがするのだ。
おいしさを支えているのは、野菜や肉類、素材すべてが新鮮ということだろう。
かつてフランスとアメリカが、のどから手が出るほど欲しがった“肥沃な土地”、ベトナム。
そう言われた所以が分かった気がした。
滞在二日目は旧市街を歩いた。
ベトナムは新正月・旧正月どちらもあるらしい。お店にはその飾りつけと思われるものがたくさん売られていた。
大きく広がるホアンキエム湖。その周りを、犬の散歩やジョギングをする地元の人々、わたしたちのような観光客が歩いていく。
(湖沿いにあったお寺。入場料がかかったので、見学しなかった)
ホアンキエム湖を超え、しばらく歩くと大きな広場に出る。そこが目的地の大教会だ。
ガイドブックには、100年以上前建てられ、フランス統治時代にネオ・ゴシック様式に改築されたと書かれていた。
宗教的なことはぜんぜんわからないが、 教会というものは、内装やデザインが国によって違うので面白いと思う。海外に行くときは、なるべく見るようにしている。
大教会は、厳格な雰囲気である欧米の教会とは対照的な配色であった。
天井は、薄いグリーンが屋根からにじみ出たような色をしていて、ステンドグラスはビビットなピンクできれいだった。建てかえた当時はもっと色鮮やかだったのだろうか。
大教会近くのカフェで一休み。
お茶と、ともだちが頼んだパッションフルーツのムースもおいしかった。
大教会までの道はパリのような、似通った道が続いていて町全体が迷路のようだった。
そして、ともだちとおしゃべりをして歩くのもままならないくらい、バイクの交通量が半端じゃない。
狭い道にバイクが何台も通り抜け、歩くたびにクラクションの音が聞こえてくるのだ。横並びで歩くのは難しい。
音ストレスというものがあると、聞いたことがある。そのせいなのか、苛々している観光客が多かった。
取り置きしたドレスがなくなっていると店員に延々文句を言ったり、頼んだメニューが来ないと憤慨していたりといった光景を見かけたのだ。
ハノイは滞在が3日と短かったものの、観光客のマナーが悪いという印象を植え付けるのに十分だった。
そもそも旅先の服屋で取り置きしてもらうなんて、期待できないし、メニューが来ないからって怒る必要ないのにと思うのだが、正直それだけではない気もする。
それはベトナムの通貨である、『ドン』が関係しているのではないかと思う。
大体のお店でUSドルが使えるものの、ローカルな屋台やタクシー、人力車はドンの支払いしかできないところが多い。
現在のレートだと1ドルはおおよそ23万ドン。支払いに苦労することは想像が容易いだろう。
そして、現地の人々はそのことをちゃんとわかっている。
タクシーや人力車でドルが使えたとしても「ドルだとこのくらいだから」と言って平気でふっかけられることもあった。両替レートがめちゃくちゃだ。
しかも値段交渉をほとんど聞き入れてくれないので、強かな商売人が多いのは確かである。観光客の気が立つのも少しわかる気がする。
しかし滞在中、いちばん不快な思いをさせられたのは、現地のひとからではなく、とあるバックパッカーからであった。
夜の旧市街にいたときのことだ。
わたしとともだちは、晩御飯を軽く済ませ、何かスナックを買ってホテルでおしゃべりしようということになり、おしゃれで小さな屋台を見つけ、一口サイズのチーズドックを購入することにした。
出来上がるまで簡単なテラス席で待たせてもらったのだが、目当てのものはなかなか来ない。代わりに違う品物がくる始末である。
これはわたしたちが頼んだものじゃない、わたしたちが頼んだのはチーズドックだよ、とスタッフに説明をすると、「もうとっくに渡したよ」と言われたのだ。
わたしとともだちが顔を見合わせたのを合図に、目の前の席に座っていた、ブルーのウインドブレーカーに、グレーのスウェットを履いた、欧米人の男性が立ち上がった。
そして彼はわたしたちに振り返り、にやりと笑うと、そのままどこかへ歩いて行ったのだ。
彼がいたテーブルには、テイクアウト用の袋が残されていた。
ほんとうは一、二秒の出来事だったのかもしれない。けれどわたしには一連の動きがスローモーションで流れたように見えたのだ。
強いショックを受けた時、ひとは一歩たりとも動けないのだと知った。
ともだちが「ねえもしかして…」と口を開いたのをきっかけに、我に返った。
それからは「ねえ!わたしたちの食べられたよね」「店員さんが間違えて渡したにしろ、なんで人の物を食べたの!?」とお互いパニック状態である。
そんなわたしたちを横目に、スタッフは何事もなかったように新しいチーズドックを持ってきたのだった。
ホテルまでの帰り道は「ふつう人のものを勝手に食べるか」だの「いたずらのつもだったとしても卑しい」だの散々悪口を言いながら帰り、部屋に戻ってからも、その話をずっとしていた。
そうでもしないと、あのゾッとする表情が頭にこびりついて、仕方がなかったのである。
ああいう客も対応しなくてはいけないとなると、ベトナムの人々も勝気になるだろうな、と少し同情する気持ちも湧いた。
のちに、旅行前にハノイについて聞いたとき、渋い顔をしたひとが多かったのは、滞在する人々の態度の悪さも原因としてあるのではないかと思った。
見知らぬ観光客を批判することはある意味、差別的な発言をすることになるのだ。
欧米の男性と書いてしまったが、もしかしたら彼はアジア系かもしれない。
見た目では、出身もバックグラウンドもわからないのである。
もしそうだとすると、みんながどこか言いづらそうにしていたのも納得である。
その夜、わたしたちはコンビニで買ったバナナチップスとチーズドックを食べながら、眠気がやってくるまでずっとお喋りをした。