長岡の子どもたち 3
車の窓から見えた、風で波打つ鮮やかな緑の稲穂畑を
「きれいだなあ。みんなおなじ背丈に成長するのはなんでだろう」とぼーっとしながら呟いたら、
「そりゃー同時に苗を植えるからだよ」。
ともだちのお父さんが運転をしながら、ゲラゲラ笑って言った。ルームミラー越しに、真っ黒の肌から覗く白い歯が見えた。
バカにされたとぜんぜん感じないのは、ともだちのお家に二泊三日して分かった、お父さんの人柄のおかげだろう。
おしゃべりではないけれど、わたしとともだちの話に相槌を打ちながら、ボソボソと話すひとだった。
声が小さくて聞き取れないときがあったが、ともだちはそれをぜんぶ聞き取って返答をしていた。その様子に家族ってすごいなってちょっとだけ感動した。
小山を越えた先にあったのは、波の穏やかな、きれいな海だった。
到着は朝の9時だったが、パーキングはすでに満車になりつつあった。
駐車場を探していると、けたたましく勧誘する海の家のおじさんに捕まり、「どこもたいして変わんないろ」というお父さんの独断で、半日過ごす海の家が決まった。
荷物を置き、ビーチサンダルに履き替え早速砂浜へ向かった。
ともだちのお父さんが、家にあったパラソルを組み立ててくれたとき、パラソルの柱部分のつなぎ目からパラパラと砂が出てきた。
「これいつの砂?」
ともだちが聞くと、「さあなあ。10年は開けてねえんじゃねえか」とお父さんは言い、わたしとともだちは10年前の砂かと笑った。
海水浴に来ていたのは、地元の家族連ればかりだった。
そのなかでも、ほかの海水浴場より多いと感じたのは、タトゥーがガッツリ入っているひとたちがいたことだ。
見慣れない光景に驚いて、タトゥーが大丈夫な海なのかお父さんに尋ねたが
「知らん。おれ久しぶりにきたから」と言って遠くを眺めていた。
たしかに。どうでもいいか。
わたしたちは、ともだちのお母さんがこさえてくれた、小さく切られた甘いとうもろこし、冷えたどら焼きやスナック菓子を黙々と平らげながら、海に浮かぶカラフルな浮き輪と、はしゃぐ子どもたちを眺めていた。
泳ぎと休憩を繰り返し、ラリーの続かない、下手くそなビーチバレーをともだちとふたりでしたり過ごしていると、あっという間にお昼がきた。
ともだちが買ったイカ焼きは塩加減がちょうどよくおいしかった。
散々海水を飲んだのに、さらにしょっぱいものを食べたくなるのはなんでだろう。人体の不思議である。
それからわたしはお昼を食べながら、数少ない家族旅行で、江ノ島へ泳ぎに行ったときのことを思い出していた。
父がいる方角へわたしは浮き輪をつけ、泳いでむかった。そのとき突然高波が上がり、わたしは波間に飲み込まれ、くるっと一回転してしまったのだ。
なんとか自力で海面から顔を出したものの、パニックになっているわたしを、父はゲラゲラ笑ってただ見ていただけだった。
今思うと浅瀬だったし大人、ましては父親であるじぶんがいるわけだから、安全であることは承知で笑っていたのかもしれない。
他人の家族と比べるのは、意味がないことだ。
けれど、ともだちのお父さんだったらきっと笑わず、すぐに抱きかかえて助けてくれただろうなと思う。
わたしは、岩のりが山盛りのったラーメンをすするふたりを交互に見た。
「そういえばさ」と。
どちらかが思い出さなければ話題に上がらないような、当事者からするとどってことない、けれど他人からはキラキラして見える記憶が、心の奥深くにたくさん埋まっているんだろうなと思った。
ひとしきり遊んだ帰り道、ともだちが「新鮮な枝豆を買って帰ろう」と言ってくれた。
わたしが枝豆をえらく気に入っていたのを、覚えていてくれたのだ。
たくさんの枝豆をお父さんが買ってくれ、ともだちのお母さんがぜんぶ茹でてくれた。好きなだけ詰めていいよとお母さんは言ってくれ、ともだちと一袋ずつ詰めて帰ることにした。
わたしの母は枝豆が大好きなので、今までのお土産でいちばん喜ぶだろうと思った。
この匂いと味を、持ち帰って共有できることが嬉しかった。
長岡から帰ってきた夜、リビングで荷物を解いていると、父に「どこか行ってきたのか」と聞かれた。
うちの父は、だれがどこへ出かけたとか、どこへ旅行したかとか、興味がなく一々把握していない。なので、こちらからもとくに報告はしないのだ。
わたしが長岡出身のともだちのお家だよと答えると、
「ああ、そう。おれ長岡で生まれたんだよ。親父が長岡でさ」。
わたしは驚き、えっと声を上げた。
父親の故郷を知らなかったうえ、偶然にも長岡だったのだ。親子同士、無関心であることに我ながらちょっと引いた。
キッチンにいた母は知っていたらしく、
「戦時中に疎開して、そのときに生まれたんだよ。親戚との縁は切れてしまったみたいだけどね」
と言った。
父が生まれて間もなく祖父は亡くなってしまっい、さらに終戦後すぐに東京へ戻ったので、長岡の記憶はないようだった。
父は母の発言にうんともすんとも言わず、とくに話題を広げるわけでもなく、さっさと自分の部屋に戻っていった。
もしも、祖父が上京せず、長岡で暮らしていたら、地元のお嫁さんを迎え入れて、孫が生まれただろうか。
わたしの頭の中でパラレルワールドが広がっていく。
“わたしじゃないわたし”が、長岡で生まれ育って、違った形でともだちと出会い、いっしょに花火を見ていたのかもしれない。
そう考えると、こうやって、ともだちと仲良くなり長岡の花火を見ることができたのは、奇跡的な出会いである気がしてきた。
そして別の世界線のわたしは、たしかに長岡の子どもなのだと思った。