のぐちよ日記

映画、本、アート、日々のことをちまちまと。

旅にでる 年末年始・東南アジア編 6 (グレー色の街・エメラルドグリーンの国)

 プノンペンは、薄暗いグレー色の街だった。

一緒に行ったともだちも「なんだか不気味な雰囲気だね」と言っていたので、概ね同じことを感じたのだろう。

そして、その印象を色濃くつけるのに十分な出来事がわたしたちに起きていた。

 

プノンペンのホテルに到着した深夜のことである。

欧米の中年男性と現地の若い女性が、トゥクトゥクから降りてきたのだ。

玄関にいたわたしたちの前を通り過ぎ、宿泊するホテルに入っていったのである。

 

堂々と歩く男性の後ろを、黒のロングヘア―に、ミニスカートを履いた女性が続く。

おずぞずと、下を向いてついていく姿を見て、「現地で女性を買う」ってこれなのかと初めて知ったのだ。

その様子があまりにも気持ち悪くて、しかもこれから泊まるホテルで事が起こるのかと思うとぞっとした。

豪華なゴシック調のホテルは、立派だったものの、ミステリー小説にはうってつけのロケーションで、さらに不気味さを増していた。

 

朝を迎えると、不気味な洋館はヨーロピアンリゾートホテルに様変わりしていた。

 

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到着初日にショッキングな場面を見たのもあり、緊張していたが、おいしい朝食ビュッフェと親切なスタッフにほっと一安心した。

街は違えど、ここはカンボジアなのだ。

 

朝食をとり、前回のブログにも書いた、あの虐殺博物館を見学した。

そうして、見終わる頃にはお昼を周っていたが、わたしとともだちはすっかり無気力になっていた。

前回のブログに書いた通り、あまりにも残酷な展示だったので(すべて事実なのがいまだに信じられない)ゆっくりお昼を食べるという気分にもなれなかったのだ。

 

気分転換にマーケットを見て回ることにした。

 

プノンペンでいちばん大きいマーケットらしい。

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マーケットの入り口は食品エリアでぐるりと囲まれている。海鮮、屋台、フルーツや野菜など、種類によって細かくエリアが分かれていて、見ているだけで楽しい。

 

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さらに進むと生活用品やアクセサリーを販売している建物に突き当たるのだ。

 

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わたしがカンボジアの国民性について思うことは、几帳面なのではないかということである。

たとえばショップに置かれている品物がきちんと陳列されていたり、きれいにラップされた食品が売られているのだ。

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プノンペンは首都でたくさんのひとが生活していることもあって、シェムリアップより汚いところはあるものの、十分きれいだなといった印象である。

 それでも、どこか薄暗い雰囲気が漂う気がするのは、天候のせいだろうか、ポルポト政権のイメージがあるからだろうか。

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気分展開ができたところで、ガイドブックに書いてあった、家庭的なクメール料理を食べられるお店へいくことにした。

ガラス扉にはトリップアドバイザーのシールが貼られていて、テラス席も店内席もお客さんでいっぱいで、店員さんにも活気があった。いかにも、人気店といった雰囲気だ。

 

席についてお水をがぶ飲みしているわたしに、ともだちが「あと30分くらいで出ないとマズイ」とぼそりと言った。

飛行機の乗る時間が迫っていたようである。

ともだちは、ほんとうにタイムマネジメントがしっかりできるひとだ。もしこれが、わたしの一人旅だったら、確実に上海の悲劇が再来していただろう。

 

なるほど、全く時間がないのかと気が付いたが、ここは日本ではない。すぐ料理が来る保証なんてないのだ。

早く作ってもらうよりも、オーダーをキャンセルした方が早そうだということになり、30歳前後の、黒髪で黒縁メガネの清潔そうな男性スタッフにお願いすることにした。

「これから飛行機に乗らないといけないんだ」そう言って、さらに言葉をつづけようとしたとき、男性が「だから、早く食べなくちゃいけない。でしょ?」と言った。

 

合ってる!でも違う!

「そう…なんだけど、もしまだオーダーが通ってないんだったら、作らなくていいからこのまま代金払わず出てもいい?」

そういうと男性は「ちょっと確認するから待ってくれ」と言い、すぐに小走りでわたしたちの席に戻ってきて「作り始めてるから、ちょっと待ってくれる?」と言ってきた。

ああ、わかったよ。わたしは彼に無理やり笑顔を作って言ったが、もうタイムリミットまで15分くらいしかなかった。

食べたい気持ちと、フライトを逃すかもしれないという不安でじわじわ、冷や汗が出てくる。

 

すると、ともだちが「なんかキッチンがやいのやいの、にぎやかになったね」と言ったのだ。

わたしはそのことに気が付き、ともだちとゲラゲラ笑った。

店内奥にある厨房は、わたしたちのオーダーを最優先にして取り掛かってくれたようだった。言葉は聞き取れないが、数人のシェフが大声で話しているのが聞えてきたのである。

急がせて申し訳ないが、やいのやいのという表現がぴったりで、さらに大笑いしたのだった。

 

そうやってどんどん出されていく料理を、わたしたちは無言で大急ぎで食べれるだけ食べ、お店を出た。

 

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(どれもほんとうにおいしかった…)

 

お会計を済ませると、あのさわやかな黒縁メガネの男性スタッフは、笑顔でまたねと言ってくれた。

 

大都市にいたので忘れていたが、ここはクメール人の国。

どこであっても、大らかで親切な人々が暮らしていることには変わらないのだ。

 

砂ぼこりが舞う、グレー色の街をタクシーでかけ抜け、空港につくと真っ先にベトナム航空のチェックインカウンターに向かった。

 なんとか間に合ったようである。

ベトナム航空は、きれいなエメラルドグリーン色で統一されていて、うっとりした。

エメラルドグリーンのロゴ、同じ色のアオザイを着た、美しくて気が強そうな女性たちが、きびきびと搭乗手続きをしていたのだ。

 

その華やかさに「これからいくのは経済発展した、豊かな国なんだろうな」という予感がして、離陸してすぐ眠りについたのだった。

 

 

 

旅にでる 年末年始・東南アジア編 5 トゥール・スレン虐殺博物館

シャム(現タイ)とベトナムの二重属国時代*1、それを抜け出すため王自ら支配下にはいったフランス植民地時代、やがてフランスから独立を果たしたシハヌーク王の国政、独裁政権下で起こったクーデターで軍事政権発足。

1863年から1970年までのカンボジアの歴史である。

平和な時代はどこにも見当たらない。

 

 軍事政権を倒そうと、亡命していたシハヌーク王は『カンプチア(当時のカンボジア)民族統一戦線』と称し、フランス留学経験者が党首のインテリ集団が起こした政党「クメール・ルージュ」と手を組み、内戦を起こす。

激しい戦いの末とうとう軍事政権を破り、首都プノンペンを取り返すことに成功する。

 

しかし、やっと平和が訪れたと安堵したのもつかの間。

クメール・ルージュは理想の国家をつくるため、首都に住む人々へ銃を突き付けトラックに乗り込ませ、地方へ追い出した。

1975年、現代史上最も残忍な独裁政治といわれるポル・ポト政権の始まりである。

 

党首のポル・ポトは、ルージュという党名の通り毛沢東共産主義を意識していた。

ポル・ポトが掲げたのは「原始的な農民の暮らしへの回帰」である。首都プノンペン無人化し、農民として地方へ送り込み強制労働をさせた。

通貨・市場を廃止、労農政治教育以外の学校教育・宗教活動を禁止。

銀行も映画館も寺院も病院も壊した。社会システムを根こそぎ滅ぼしたのだ。

 

 強制労働によって大量の餓死者を出したが、恐ろしいのは、犠牲者のほとんどが強制収容所で亡くなったという事実である。

 

首都の中心部にあるトゥールスレン(通称S21)は、収容所のひとつだった。

現在は当時の残酷さを伝えるため、博物館としてそのままに残している。

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収容所といっても、かつては高校だったところで、校舎は拷問室、独房、雑居独房とそれぞれ棟によって分けられた。

 

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スパイ容疑をかけられ、連れてこられたのは僧侶、医者や教師など高等教育を受けた知識人、フランス語や英語を話せる者、外国人、さらには眼鏡をかけているという理由にまで至る。

そのだれもが、賢く善良な国民だった。

家族単位で連れてこられ、犯してもいない罪を自白させられ、キリング・フィールドと呼ばれる処刑場に送られたのだ。

 

当時トゥールスレンは極秘の場所だった。連れていかれるときは目隠しと手錠足枷をかけられたのである。抵抗したら、その場で殺された。

 

どれほどの人々がこの学び舎の卒業生だっただろう。どれほどの人々が、この場所で悲惨な最期を迎えると予想できただろうか。

 

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(校庭の遊具も拷問器具として使われた)

 

A棟の独房は鉄製のベッドが置いてあった。床には赤黒い血の跡が染みついていて、壁には政権崩壊当時にそのベッドに放置され亡くなったひとの写真が掛かっていた。

連行され没収された衣服、拷問器具など、当時収容所にあったものはすべて展示されていたが、わたしは苦しくてすべてを見ることはできなかったし、写真を見返すことなんてできないと、一枚も撮らなかった。すべて夢であってほしかった。

 

信じられないことに拷問を行っていたのは、地方に住んでいた貧しい少年たちだった。

収容所の所長でドッチと呼ばれた人物は、彼らを連れてきて洗脳をしたのである。

ドッチは少年たちに使命だと教え込み、かつて自身が旧政府に共産主義者として拷問を受けた経験をもとに教えたのだ。

はじめウサギを人に見立て拷問し、徐々に慣れさせたのだという。

 

見学のときに借りた日本語の音声ガイドでは、生き残ったひとの証言が吹き込まれていた。

目隠しをされたまま収容所に連れてこられたとき、飢えたオオカミの雄叫びのようなものが聞えてきた。まるで彼らは、新しい獲物がきたと、大喜びしていたようだった。

 

政権崩壊時、所長のドッチは「虐殺の証拠のフィルム・文書をすべて破棄して逃げるように」と上層部から命令を受けていたが、処分する時間が間に合わず大急ぎで逃げ出した。

そして、その膨大な写真は収容所に放置されたため、今日トゥールスレンで見ることができるのだ。

一人ひとりの証明写真から、やせ細り横たわる人々、拷問中に亡くなった人々の姿などおびただしい数の写真が展示されている。

 

博物館として見学可能になったとき、行方不明の家族を探す人々でごった返したそうだ。

友人の付き添いに来たひとは偶然にも、じぶんの親族を見つけたという話が残っている。

音声ガイドで犠牲者や、その遺族たちの実体験が聞けた。

 

アメリカから世界一周旅行へ行った若く明るい兄が、カンボジアでスパイと疑われ処刑されたこと。

 

フランス在住のカンボジア人である父が「新政府を樹立したからあなたの力を貸してほしい」とクメール・ルージュからきた手紙を信じて帰国したが、二度とじぶんたちのもとに戻らなかったこと。

のちに博物館へいき母と手分けして父の写真を探し、見つけたこと。

 

政権崩壊後、幼心に助けにきてくれたひとを敵だと思い、たったひとりで校舎を逃げ回ったこと。同時に連れてこられた母を探して、泣き叫びながら走ったこと。

 

さらに、政治研究の専門家のインタビューも吹き込まれていた。

生き残った看守たちは、口をそろえて「自分は悪くない。与えられた使命をこなしたのだ」と答えたという。

それは、全体主義に共通する心理で、アウシュビッツ収容所を統率していたアイヒマンも同じことを言っていたのだ。

「大量虐殺は、すべての工程が分担されている。自身がシステムの、ひとつの歯車として機能するため罪の意識がない」と解説していた。

 

ドッチは、かつて熱心でやさしい数学教師だったそうだ。

共産主義に傾倒し一員となり、所長につくと、こまかく囚人を記録した。膨大な書類をトゥールスレン近くにあった自宅に持ち込むほど、業務に没頭したのだという。

彼の恩師が収容されたこともあった。

しかし、例えだれであっても情けをかけることはなかった。

 

秩序の乱れをぜったいに許さず、ときには拷問の末囚人を殺してしまった看守をこんどは罪人として収容したほどである。

 

3年8か月の間、トゥールスレンで収容された人々は2万人に及び、生きて出てこれたのはたったの7人。

収容所されたのは、スパイ容疑をかけられた人々だけではないのだ。

 

ドッチは亡命し、のちに身元が割れ捕まったのだが、裁判を受けてもなお「わたしは悪くない。与えられた仕事をしたのだ」と無実を主張したのだという。

 

当時、アメリカはベトナム侵略の作戦として、第二世界大戦で使用された量を上回る爆弾をカンボジアに落とした。

 他国の攻撃や侵略、長引く内戦がつづく環境で、民族意識道徳心を育てることはできたのか。

もしもわたしが渦中にいたら。なにも信じられるものがなく、明日がやってくるかわからない状況で、正気を保つことなんてできない。

 

ポルポト政権崩壊から、まだたったの40年しかたっていない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

旅にでる 年末年始・東南アジア編 4(プノンペン行きの飛行機にて)

シェムリアップから首都プノンペン行きの飛行機は、今まで乗ったどの飛行機よりも小さく、乗客マナーは過去最低だった。

搭乗手続きのときなんて、集団が平気な顔して横入りしたり、パスポートをスタッフに見せながら怒鳴っているひとがいたり散々な有様である。

蝿の王みたいに、飛行機事故にあってどこかに不時着したとして、乗客みんな生き残ったら、最悪な状況になるな」と考えてしまった。

そもそも、不時着する時点で最悪な状況だけれど。

唯一の救いは、小型機ゆえたった1人しかいない客席乗務員が爽やかな男性だったことだ。

すらっとした色白イケメンの顔を眺め、なんとかイライラを抑えることに成功した。

 

そんな不穏な空の旅も小一時間ほどだ。

真っ暗闇の窓の外から格子状の光が見えてきたとき、着陸態勢になったという機内アナウンスが流れてきた。

離陸前は「外真っ暗で何にも見えないね」と言い合っていた隣の席のともだちは爆睡しており、「首都ってやっぱり夜景がすごいね」と揺り起こして伝えたかったけれど、やめておいた。もう少し、シェムリアップの余韻に浸りたかったのだ。

 

アンコールワットで初日の出を見た後、わたしたちはトゥクトゥクに乗りランチから残りの時間をパブストリート周辺で過ごすことにした。

 

ランチは、目をつけていたおしゃれなカフェの二階に決め、窓の外から通りに歩いていく人々を眺める。

 

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 早々にニューイヤーから次の飾り付けを変える業者たちが、ゆるゆると作業をしていた。大晦日の昨夜、この通りはきっと大賑わいだったに違いない。

 

頼んだメニューはカルボナーラ、フライドポテト、そしてカンボジア風の肉炒め。

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カンボジアはどの料理も丁度良い味付けで、大体おいしい。濃すぎてたまにのどが痛くなるタイ料理と比べると、口当たりはずっとソフトで食べやすい。

パスタやピザは本格的ではないけれど、おいしいので、どのお店に行っても安心して注文できる。食べ物がおいしいことは、カンボジアの大きな魅力だと思う。

 

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 (アンコールワットの観光中に食べたお店。クメールスープがとてもおいしかった。)

 

本格ジェラートのおしゃれなカフェもあった。甘すぎずで想像以上のクオリティである。コーヒーはどこで飲んでもおいしくて、わたし好みの濃くてきりっとした味でよかった。

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ひとつ言いたいのは、カンボジアには無糖の緑茶が全くないことである。

わたしは海外にいっても大概日本料理を恋しくならないタイプなので、意外な発見だった。

次回行くときは、キャリーケースにティーパックや粉末タイプを入れるのを忘れないようにしたい。

 

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 パブストリートの近くに位置するオールドマーケットを見て周ることにした。

規模は小さいが、商店の細い通路を歩いて行くと、さらに奥へ奥へと広がっている。

 ざっくりと食べ物のエリア、宝飾品エリア、雑貨エリアでまとまっていた。

 

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料理が大好きだったら、スパイスを買って帰りたかなあと思った。ともだちのお土産にしても、どれをあげたらいいのか分からないのでやめておいた。

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お土産はもっとちゃんと分かりやすいものを買おうということになり、雑貨エリアで選ぶことにした。

どうやらカンボジアの観光客は日本人が多いようだ。オールドマーケットに限らず、どのショッピングエリアでも「買って~」と日本語で声をかけられた。

雑貨と宝飾品エリアでの写真がないのはそのせいである。立ち止まると客引きの声をかけられて大変なのだ。

 

バービー人形のようなショッキングピンクのリップを付けた、黒髪のかわいらしい女性販売員も、例に倣い人懐っこく話しかけてきた。お店の雑貨が可愛かったので、買うことにする。

じつはカンボジアに来てから、初めての買い物そして値切り交渉だった。だが相手はプロだ。商売上手な女性販売員はニコニコしながらかわしてくる。

したかなくわたしは最後の切り札をつかう。

「あのね…今日がシェムリアップ最後の日なの…」そう言うと、わかったわよ!と仕方ないわねと笑いながら言い、少しだけ負けてくれた。

相場はもっと安いのかもしれないけれど、満足する買い物であった。ともだちは「その言い方、ほかでも使えるね」とにやにやしていた。

 

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 パブストリート近くにある、おしゃれな通り。短い距離だがアジア、ヨーロッパ発の服飾雑貨店が並ぶ。

 

オールドマーケットから橋を超えたところに、ナイトマーケットが開催されるエリアがある。

滞在中一度も夜行かなかったので、様子は分からないがお昼は閑散としていて怖かった。

閉園した遊園地のような雰囲気で不気味だ。

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行きの飛行機に乗り遅れたわたしたちは(100パーセント航空会社のミスだけれど)念には念をと、余裕をもってホテルにもどり、空港に行かなければいけない時間まで待たせてもらうことにした。

ホテルスタッフに「まだ早いよ。空港へは1時間前に行けばいいんだよ。マーケットでご飯食べてきたら?」と言ってくれたが、わたしたちは聞かなかった。行きの飛行機が相当トラウマになっていたのである。

じっと待っていたけれど、わたしたちは退屈していたわけではない。思い出話に花が咲き、今度きたらあそこへ行きたいと盛り上がっていた。

そうしていると、滞在中お世話になったトゥクトゥクおじさんが傍にやってきて「プラザ、プラザ」と言ってきたのだ。

「プラザってなに?」と聞き返すと、トゥクトゥクおじさんは恥ずかしそうにホテルのフロントへ助けをもとめに行き、スタッフがああ!と言った。「なんだろう」とじっと見つめているわたしたちに向かって「あなたたちのブラザーって言っていますよ」と通訳してくれた。

ああ!ブラザーね!と理解し、照れていたトゥクトゥクおじさんにたくさんお礼を言い、一緒に写真を撮りお別れした。

気さくなホテルスタッフとも写真を撮り、握手をしようと手を出すと、彼はおずおずと両手でわたしの手を握った。

 

トゥクトゥクおじさんが呼んでくれたタクシーに乗り込み、空港へ向かう。彼とはともだちなんだ、とタクシードライバーは言った。海外旅行の移動は緊張するけれど、そのときだけはゆったり世間話をすることができたのだった。

 

ホテルの受付スタッフも、トゥクトゥクおじさんも、街の人もみんなシャイで心優しくていいひとばかりだった。

道を聞くと丁寧に教えてくれるし、例え言葉が通じなくてもニコニコと笑いかけてくれるのだ。

 

着陸前の首都の夜景を眺めながら、きっとシェムリアップほど、心温かい人々に出会えないだろうなと思った。

 

そして彼らの親戚の中には、ポルポト政権の犠牲者がいるはずなのだ。

 明日はこの旅いちばんの目的、トゥールスレン虐殺博物館へ行くと決めていた。

 

 

 

 

旅にでる 年末年始・東南アジア編 3(アンコールワット/密林に浮かぶ楽園)

 

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クメール語で「寺院のある都」という意味を持つ*1アンコール王朝は、11世紀に最盛期を迎えた大帝国である。

 

王は威厳を保つため、天界と地上を結ぶ唯一の存在であると国民にアピールし増築を繰り返し生まれたのが、アンコール巨大寺院群であり、アンコールワットである。

 

不思議なのは王が仏教、インドからきたヒンドゥー教とでいくたびも信仰を変えていたことだ。それも、何代にわたってである。

建築様式が宗教によって変えているので、混ぜるというか、完全に改宗しているという印象である。素直というか、流されやすかったのだったのだろうか。

時代は前後するが中世ヨーロッパでは、おなじキリスト教でもカトリックプロテスタントの宗派で宗教戦争が起きるほど、宗教の違いは争いの元なのだ。

宗派どこか宗教も軽々超えてしまうところに、カンボジアのおおらかさを感じる。

 

おおらかさ、と言っていいのだろうか。ガイドブックによると、じつはこんな膨大な建築群は作る側にもまあまあ無理があったらしく、お披露目の日までに見えるところだけやって、見えないところはそのまま放置した跡が残っているそうだ。

 

ある種のいい加減さが、500年もの長い間繁栄できたのではないかと思う。

 

 せっかくだから、アンコールワットだけでなくその周りの遺跡群も見ようということになったので、入場券売り場で62ドルで3日券を買った。

顔写真を写され、それがプリントされたパスチケットだ。なかなかうまくできている。

 

ホテル専属のトゥクトゥクドライバー(通称トゥクトゥクおじさん)は信用できそうだし、送ってもらったついでにそのまま、ツアーをしてもらうことにした。

ドライバーは背が高く、色黒ですこしふっくらした見た目をしていた。

黒髪薄毛のオールバックでほお骨が高く、目はきりっとしているので、顔だけ見るとちょっと貫禄のあるこわもてだが、中身はチャーミングであった。

ガタガタの道路を通るたび大きく揺れる車体に、わたしとともだちがギャーギャー騒ぐ姿をちらりと振り返り、いたずらっぽく笑うようなひとなのである。

 

見た目から想像ができない、少年のような心を持つおじさんドライバーをわたしたちは気に入り、滞在中ほとんど利用したのだった。

 

トゥクトゥクおじさんに「暑いからお水を持っていきなよ」と座席の椅子下にあるクーラーボックスから、小さいペットボトルを渡された。ツアーのサービスに入っているらしくありがたい。一度だけでなくたびたびお水をくれたので、熱中症にならずに済んだ。

 

アンコールワットに行く前に、いくつかの遺跡群を見て回った。

 

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今となってはひと続きの廊下のようだが、当時は部屋ごと扉で仕切られていたのかもしれないなあと思った。

岩で作られているからか、どの建物も迫力がある。

 

印象的だったのは、遺跡までの道のりで売られていた影絵である。

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 デザインをニードルで跡をつけ、打ち付けていく。

牛革をつかったレザークラフトといったところである。

 

黙々と作業する少年を興味深く覗き込むと、彼はすぐさま「これは4ドル」と、きちんと商売し始めた。

 

カンボジアのマーケットや路面店は、値札はなく言い値で販売されていることが多い。

東南アジアはそういったところが多いけれど、カンボジアも同様である。

タイに行った時、最高にぼったくる商人が多いなというイメージがあるが、カンボジアはまだまだ良心的だ。

そういうちょっと押しの弱さが、わたしがカンボジアを好きなポイントでもある。

 

誰も住まなくなると建物は急速に衰えていくものである。岩の宮殿は、建設時立派だった分、その崩壊がすさまじい。

 

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建物の間から成長するガジュマルの木。

 

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二年ほど前の沖縄旅行で寺院を見学したときのことを、わたしは思い出していた。

ガイドの方が、ガジュマルの根を指差しながら「この木は、根をはると建物を崩壊させるほどの力があるので、民家の傍にはぜったい植えないんですよ」と言っていたのだ。

 

まさに、その光景が今目の前にあると思うと不思議でならなかった。蒸し暑さのせいなのか、長い年月と生命力を感じたからなのか、少しめまいがした。

 

最後に訪れたのは大きな川とその周りに広がる密林に堂々とたたずむ寺院、アンコールワットである。

 

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建物の中へは、もとからあった橋ではなく脇にある簡易的な浮き橋から渡るようになっている。ひとつひとつパネルを組み合わせた、面白いつくりだ。 

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歩くたびに揺れるのが楽しくなって、橋自体が揺れるように、足を横に振りながら歩いていると、ともだちに「危ないから」と注意された。

反対方向からきた子供たちも同じことをしていて、ふと我に返ってやめる。

 

向こう岸につくと、あの世界遺産が間近に現れた。

ふと土筆が三本生えているみたいだなと思った。その発想は罰当たりなのかもしれない。

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 アンコールワット内部は大きな岩の回廊が続いている。その中央や端に階段があり、上に昇っていけるようになっているのだ。

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夕日が沈みだしたことに気が付き焦って見て回っていたものの、頂上につづく急こう配の階段の門が閉められていることに気が付いた。

時刻は17時半。クローズの時間である。

 

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わたしは少し離れた位置から、門の前に立っている若い男性警備員に向かって、ちいさく手を合わし「お願い(中へ入れてくれ)」とジェスチャーをしてみた。

気づいた警備員が「ダメ」と首を横に振る。また懲りずに「お願い、お願い」と、同じジェスチャーをしてみる。

あきれ半分、はにかみながら「ダメ、ダメ」と彼はさらに首を振った。言葉の壁を超えた瞬間である。

仕方ないので、次の日リベンジすることにした。

 

早朝4時半。目が覚めると年は明けていた。

寝ぼけまなこで、ともだちと簡単な新年のあいさつをし、トゥクトゥクに飛び乗り再びアンコールワットへ。

お目当てはアンコールワットごしに昇る、初日の出である。

 

5時半近くに到着すると、あたりは真っ暗でしんとしていた。

街灯のない真っ暗闇から、徐々にあの三本土筆が姿を現し、肌寒かった地面がじりじりと熱気を帯びだす。

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今日もまた、カンボジアの真夏の暑い一日が始まるのだ。

けれどその日の太陽は、わたしたちにとっては今年最初で、一年に一回だけ訪れる特別なものだった。

 こんなご利益のある初日の出は、世界中どこにいっても見つからないなあと考えながら、ゆっくり登る太陽をただじいっと眺めていた。

 

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何代もの王たちも、素晴らしい朝日を宮殿から眺めたのだろうか。

見上げるものは太陽くらいしかないような、あの回廊のてっぺんで。

 

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 まさに孤高の存在である。当時の国民は、ほんとうに王のことを神様だと信じていたのかもしれないなと思った。

 

大河のように続いていくかに思われたアンコール王朝だったが、アヤタヤ王朝*2の侵略により、終わりを迎えた。

 

そしてながいながい、侵略と崩壊の歴史に向かっていったのである。

 

*1:地球の歩き方アンコールワットカンボジア」より

*2:現在のタイにあたる

旅にでる 年末年始・東南アジア編 2(オープン・シェムリアップ!)

都市部空港は、現代的な外観、高い天井、大きい窓がつけられているといった特徴のデザインが多い。

デザインは幅広いけれど、開放的でダイナミックだというところは、同じなのではないだろうか。どの国に行っても大きな違いはないと思う。

 

しかし、アンコールワットがあるカンボジアの古都、シェムリアップの空港は、わたしがいった、これまでの空港と全然違っていた。

シェムリアップ空港は、まるでリゾートホテルのようだった。

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国内線・国外線、入国出国が別棟になっており、それがヴィラみたいで「ここに泊まりたいな」とさえ思ったほど。

素敵なリゾート空間で入国審査を済ませることになった。

 

カンボジアの入国審査には、証明写真を提出するという決まりがある。

その規定サイズが日本の証明写真機にはないので、出発前の成田空港で、「大は小を兼ねる」と、大きめのサイズで撮影しておいたのだった。

そして入国審査のスタッフは、それの裾を一直線にカットしたのだ。

躊躇なく機械的にはさみを入れる姿をみて、サイズはどうでもいいのだなあと思いながら、南国のおおらかさを感じてワクワクした。

 

上海から一緒に行動していた女性とは、空港でお別れ。

無口でかっこいいお父さん、彼女に似た、明るくサバサバしたお母さんがエントランスに迎えに来ていた。

チケットの件で情報交換をしようと、わたしたちと彼女は連絡先を交換していたので、一期一会のお別れ感はなく「ではまた後日」と軽く別れの挨拶をした。

ウルルン滞在記のようなお別れは、旅の始まりに重たすぎる。

 

そうして彼女はご両親と、わたしとはもだちとのカンボジアベトナム旅行がようやく始まった。

 

 シェムリアップは東南アジアらしい風景がつづく、地方都市だった。

ホテルに向かうタクシーに乗りながら街並みを眺めると、天井からつるしたプロペラのようなものにビニール袋をくくりつけまわしている精肉店を見つけた。屋台に並べられた商品に虫がつかないよう、設置しているのだろう。

その風景をみて、わたしは「日本とは遠い国にきた」という実感がわいていた。

 

シェムリアップは、道路もお店にも目立ったゴミもなく、清潔な町である。きれい好きな国民性かもしれないなと思った。

 

現地に遅れて到着をすることを、ともだちがホテルへ連絡してくれていたので、すんなりチェックインをすることができた。

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中庭にある大きなプールを囲んでヴィラタイプの部屋が並ぶホテルは、部屋の中もコンクリートと木造が調和した、おしゃれな内装だ。

蚊は多いけれど快適に過ごせそう。

そう思ったのだけれど、ホテルスタッフが案内したあと、部屋についているベランダにあるお風呂以外、バスルームがないことに気が付いた。

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ヤモリと蜘蛛の巣が壁にくっつき、蚊が飛ぶかう空間にぞっとして、急いで部屋に戻ると、「べつに大浴場があるかもしれないよ」と、ともだちが言った。

 

そんなの気休めにもならない。けれど、もしかしたら。

淡い期待を抱きながらホテルの受付に戻り、「お風呂はベランダにあるところだけか」と若くて初々しい男性ホテルスタッフに尋ねると、満面の笑みで「イエス!」と答えてくれた。

どうやらこのホテルの魅力のひとつらしい。

キラキラした彼の瞳を見つめながら、野外シャワーをする覚悟を決めた。

 

開放的なお風呂でシャワーをすまし、少し休んでからシェムリアップの繁華街『パブストリート』へ晩御飯を食べに行くことにした。

タクシーからトゥクトゥクに乗り換え、目的地へ向かう。

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トゥクトゥクとは、バイクタクシーのことだ。バイクタクシーといえど、バイクにそのまま四輪の客席がくっついている、東南アジアならではの乗り物である。

乗るたび、「運転手のバイクと客席の連結が離れてしまうんじゃないか」と不安になるが、幸いその事態に陥ったことはない。

よくゆれるものの、心地よい風を受けながら景色を楽しめるので、わたしは好きだ。

 

シェムリアップでの相場は片道3ドルくらいだろうか。首都プノンペンでは4ドルだったと思う。

カンボジアではアメリカドルが主流なので支払いが楽だが、細かいおつりは現地紙幣のリエルを受け取る仕組みなので、すこし困る。けれど物価も安く、値段はドルで統一されているので、困ることはなかった。

 

パブストリートは、ネオンかがやく繁華街であった。

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いくつかの通りがパブストリートとして交差し、そのすべてに、びっしりレストランやバー、クラブやお土産屋さんがならぶエリアである。

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ホテルのお風呂と同じく、シェムリアップは「開放的であること」が重要らしい。

レストランはどこも広々としたオープンテラスで、欧米からきた観光客たちが、ひとりがけのゆったりとしたソファに座り、食事を楽しんでいた。繁華街なのに、治安は悪くなさそうだというのが、わたしの印象である。

 

わたしは、トランジットやシェムリアップ空港でアジア料理をしこたま食べたので、全然違う食べ物が食べたくなった。

オープンテラスで、マルゲリータピザとスパイシーなパスタをともだちとシェアし、コーラを流し込む。

 安くておいしい食事は、カンボジア滞在を安心させるのに十分だった。

 

次はアンコールワット編。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

旅にでる 年末年始・東南アジア編/上海空港で起きたトラブルのはなし

だだっ広い上海空港で、乗り継ぎ便が間に合わなかったことを知り、ともだちとふたりでショックを受けていたとき、視界にひとりの日本人女性が入った。

ボブヘアーの彼女は黒のダウン、黒の緩めのスエットのようなパンツを履いていて、バッグパックをもっていたか忘れたけれど、とにかく、いかにも旅慣れをしているような服装だった。

 

スタッフに「あそこの彼女、あなたたちと同じ状況だよ」と言われ、そのひともこちらに気が付き、お互い安堵し自己紹介しあった。

初対面のひとと母国語で会話ができるってだけで、こんなに安心するのかと、そんなことを考えていた。

 

上海へ行ったのは、アンコールワットのある町、シェムリアップ空港へ行くトランジットのためだったのだ。

シェムリアップ滞在後は首都プノンペン、そしてベトナムハノイに行く、一週間がかりの年末年始旅行になるはずだった。

まさか、飛行機から空港まで迎えにくるバスが遅延し、そのせいで乗り継ぎの便を逃すなんて思ってもいなかったのだ。

 

機内でバスがくるまで待機していてほしいと言われた、わたしたちは降りることができなかったと、ぶっきらぼうな空港スタッフに向かって必死に抗議するも、こちらは悪くない、返金はできないの一点張り。

続けて、年末年始は長期休暇をとるひとが多いから、同じ経路のチケットはとれないといい、一番早くて1月3日の便だと言った。

アンコールワットもトゥールスレンもあきらめるしかないのか。

急に体の力が抜けてきたとき、ともだちが「まあ上海に滞在するのも悪くないか」と言った。

わたしたちはおかしくなって笑った。

まあ服は買えばいいし、それに上海在住のともだちにも会えるな。上海も楽しいかも。

ポスターのウェルカム上海の文字が目に入り、摩天楼にいる自分を想像した。

なにかトラブルがあったとき、そのひとの本質が分かるって聞いたことがあるけれど、まさにその通りだ。このともだちとの旅行でよかったと思った。

 

一方、一人旅の女性はスタッフの話を聞いて真っ青な顔をしていた。

わたしとともだちは二人旅だが、彼女はひとりぼっちでそうやすやす受け入れられないだろう。

彼女の状況を詳しく伺うと、結婚前にご両親とカンボジアベトナムへ旅行にいく予定だったという。両親は自分ほど旅行慣れしていないし、別便でわたしが先に到着するはずだったから…と深刻そうだった。

考えてみると(みなくてもほんとうはわかるはずだが)シェムリアップへ行かなければ、プノンペンハノイいきのチケットも全部無駄になり、わたしとともだちは相当な出費になってしまう。

だめだ、楽観的過ぎた。目的を忘れるところだった。今日明日までにシェムリアップへなんとしてもいかなければ。

 

どうしても今日明日でいきたいから、ここからいける経路でチケットをとってくれと、スタッフに懇願した。するとスタッフは「あっちのブースに日本語ができるスタッフがいるから、そっち案内するよ」と教えてくれた。それを早く言え。

 

何とかとれたチケットは上海0時発の便に乗り、朝にクアラルンプールに到着、お昼過ぎにシェムリアップへ到着するスケジュールだった。

 

一人旅の彼女もなんとかご両親へ状況をメールで送ることが出来て一安心。

 

乗れなかったチケットの返金手続きは、日本に帰国してから考えることにして、せっかくだし、出発ロビーで上海料理を食べようと話をしていると、一人旅の女性が遠慮しながら「晩御飯、いっしょに食べてもいいですか」と尋ねてきた。

わたしとともだちは「もちろん!そのつもりですよ」と言い、それから彼女とはクアラルンプール、シェムリアップの空港まで一緒にいた。

 

空港についたら食べてみたいと事前に調べておいた、『上海人家』で小籠包を味わいながら、「一日一回はハプニングがありそうな旅の始まりだね」とわたしが言うと、「明日はなにがあるんだろうね」と、笑いながらともだちは言った。

 

次はシェムリアップ編。

 

 

 

 

 

 

 

 

カードキャプターさくら展と作品について~さくらはなんのために戦ったのか~

先日六本木の森アーツギャラリーで開催中のカードキャプターさくら展へ行ってきた。

 

ccsakura-official.com

新たな「クリアカード編」のシリーズは見ていないが、旧シリーズの大ファンとして、大満足の展示だった。

ショートムービー、原画、特大ケロちゃんぬいぐるみなど。展示に大興奮し、感動したのだが、なにより、中国人カップルが原画のセリフを読みながら、彼氏(と思われる人)にあーだこーだ言っていた姿をみて胸が熱くなった。

 

 

そもそも『カードキャプターさくら』ってなんだっけ。

カードキャプターさくらは、CLAMPにより1996〜2000年にかけてなかよしで連載され、のちにアニメ化した少女漫画である。

「そんなアニメもあったなあ」「どんなストーリーだっけ」というひとたちのために、簡単にあらすじを説明する。

小学四年生の木之本桜(きのもとさくら)は、父と兄の三人暮らし。

ある日、父の書斎でとある本を見つけ、不思議に思い手に取ると、本の中に入っていた「クロウカード」が解き放たれ、飛んで行ってしまう。

本と共に目覚めたクロウカードの番人ケルベロス(通称ケロちゃん)から、クロウカードには、世界に禍いをもたらす精霊が封印されていたことを聞く。

世界平和のため、クロウカードを集めるというストーリーである。

バトルシーンのほか、さくらの日常生活も併せてストーリーは展開していく。

 

カードキャプターさくら」は他の少女漫画とは全く新しい、異色の作品であるのは間違いない。だからこそ、国内外で愛され続けているのだ。

 

ではそれはなぜなのか、わたしなりに考えてみた。

 

多国籍なキャラクター

まずひとつめに、キャラクターが多国籍ということだ。

メインキャラクターである、李 小狼(リ シャオラン)という男の子は香港の転校生で、物語中盤に出てくる柊沢エリオル(ヒイラザキエリオル)はイギリスの転校生である。

異世界が舞台の魔法少女だと国籍は関係ないが、現代劇で、しかもメインキャラクターが外国人というのは、それまでなかったのではないだろうか。

 

多様性という面でいうと、LGBTの要素もある。

 

新たな恋愛観

さくらが片思いしているのは、さくらの兄、桃矢(とうや)の高校の友達である、雪兎(ゆきと)だ。

のちにさくらは雪兎が桃矢のことを「大切な存在」だと思っていることに気づく。

そして桃矢も、雪兎と同じ気持ちであるとさくらは知り、なんの違和感もなく受け入れるのである。

物語の中では好き、片思いというニュアンスではなく「大切な人」と表現をする。

その表現は生々しさを消す効果があったけれど、わたしを含め、きっと多くの読者が「どういうこと?男の子同士じゃん」と不思議に思っただろう。

 

不思議に思うことはほかにもあった。

当初小狼は、雪兎に片思いをしさくらと恋のライバルであったし、主人公の親友である知世だって、さくらに片思いをしているのだ。

 

さらに、男女を超えた恋愛感情は、年齢も超える。

主人公の同級生である、利佳(りか)は学校の先生と付き合っているし、さくらの両親も、もとは先生・生徒の関係だったのである。

当時小学生だったわたしでも「犯罪なんじゃ…」と思うほどの設定。なかよしで連載し、NHKでアニメ化したことを考えるとさらに驚きである。

 

なんでそんな設定にしたのか。

わたしは、さくらの父にその答えがあるのではないかと思う。

 

さくらの父は、実の娘であるさくらに「さくらさん」と呼びかけ、誰に対しても礼儀正しく敬語で話す。

かといって子供たちは父へ敬語を使わず「お父さん」と呼び、ごく普通の対応。父は「敬語で話すのは口癖だ」と言い、子供たちに強要をしないのだ。個人を尊重しているのである。

 

そして主に父が登場するのは、エプロンを身に着け、朝食を作るシーン。

 さくらが何かに悩んでいても、信じて見守るスタンスは終始崩さず、身体を張ってさくらを守ったり、すすんでアドバイスをすることもない。

 

父親というより、母親のような存在なのだ。

 

このキャラクターからわかるように、作者は新たな親子関係や、価値観を表したかったのではないかと思う。

 

バトルコスチューム

セーラームーンをはじめ、魔法少女たちはステッキやコンパクトに向かって呪文を唱え、バトルコスチュームに変身する。

しかしカードキャプターさくらに、変身はない。

バトルコスチュームはあるが、さくらの親友、知世がオーダーメイドで製作する。オープンな魔法少女なのだ。

 

知世は衣装係だけでなく撮影係も兼任し、クロウカード封印のバトルは逐一ビデオで納め、上映会をする。

親友であり、サポーターであり、舞台裏スタッフである知世は、さくらへの思いを秘めながらさくらを「大切なひと」だというのだ。

 

それにしても、どうしてさくらは変身をせず、親友のバトルコスチュームで戦うのだろうか。

 

ありのままの姿で戦う魔法少女

 

「大切な存在」という表現をつかい男女、年齢を超え、人として好きという価値観から想像するに、さくらが変身をしないのは「さくらのまま」で戦うことに意味があるからだと言える。

 

それにしても、魔法少女がありのままの姿で戦うというのは、今までなかったのではないか。

そのことについては、アニメソングの歌詞に表れている。比較対象としてあげるのはセーラームーンの「セーラースターソング」。

 

苦しみがいま セーラアイズ

 奇跡をおこすの セーラウィング

だれだって 運命の星をもつ

まけない!明日へセーラエール

ゼッタイ!つかまえる!セーラスター

このちかいとどけ 銀河まで

 

 

「運命の星(己の使命)」のために、自身が成長(変身)しようとする姿。

強くなって、困難を超えるというニュアンスがある。

まけない!ゼッタイ!つかまえる!からも、目的を達成させる強い意志を感じる歌詞だ。

 

カードキャプターさくらではどうか。「プラチナ」という曲を例に挙げたい。

 

伝えたいなあ 叫びたいなあ

この世に一つだけの存在であるわたし

祈るように 星のように

小さな光だけど何時かは

もっと もっと 強くなりたい

 

限界のない 可能性がここにある この手に

It’s gonna be your world

 

自己肯定的表現である「この世に一つだけの存在であるわたし」。

「もっと強くなりたい」と言ってはいても、どうすれば強くなるかは「この手に」あるのだ。

伝えたい、叫びたいというところからも内から外へ放出するようなエネルギーを感じる。

 

セーラームーンが「成長し困難を超え、世界を変える」のに対し、カードキャプタさくらは「ありのままの自分が世界を変える」という、アプローチが印象的である。

 

作品の中で、さくらがよく口にする「ぜったい大丈夫だよ」というセリフ。

それには己の可能性を信じるという意思があり、さくらをそばで見守るキャラクター達の支えがあってこそ、言えるのだ。

 

「世界の平和のために戦う」ではなく「大好きな人たちを守るために戦う」魔法少女

 カードキャプターさくらは、とても現代的な価値観を取り入れた作品なのである。

 

最後に、カードキャプターさくら展で撮った写真でお別れです。

 

 

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当時のなかよし表紙。

セーラームーンあずきちゃんカードキャプターさくらが連載していたなんて、胸が熱くなる。

 

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知世が作ったバトルコスチューム。サイズが小さいのは、さくらの実寸大イメージだからだろうか。

 

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クロウカードとさくらカード

 

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でかケロちゃん。一緒に写真も撮った。

 

 

 

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 さくら名言集。キャラクターの声で再生された。