ニューヨークとベーグルと元恋人の話
ニューヨークで短期留学していた頃、アメリカ人と付き合っていた。
日本に数年働いていたこともあり、日本語が堪能な人だった。
ある日、彼とおしゃべりをしていたとき、ふと「アメリカ人が日本に住んだら、なにが恋しくなるんだろう」と気になった。
日本には多国籍料理屋はたくさんあるし、ニューヨーク発のお店もたくさんある。
彼の答えは、意外なものだった。
「食パン。日本のは食パンじゃないよ。アメリカっぽいパンはどこにもなかったな」。
日本の食パンはもっちりふわふわ。
欧米の食パンはカリカリで小さく、硬いのだ。
今でこそ、成城石井やシティベーカリーにありそうだが、当時はそんなに普及してなかったのだろう。
それは逆も然り。
ニューヨークのスーパーやパン屋を探しても、もちもち食パンはなく、あのパンしかない。
トースターで焼いたらさらに硬くなり、バターもうまくぬれずに表面がガリガリと剥がれるタイプのパン。
日系スーパーのパンは高いし、朝食は安く済ませたい。
そんなわたしの願いをかなえたのが、ローカルスーパーの、食パンコーナーの下に陳列していた、ベーグルであった。
ベーグルをちゃんと食べたのは、留学してからである。
かみごたえがあり、弾力のある大ぶりのパン。
しかも5個入りで当時3ドルくらい。
これだ。
そのベーグルを半分に切って、そこに焼いたベーコンや目玉焼きを入れたり、たまにバターとあんこを挟んで食べたりした。
コスパ抜群でおいしいパン。いまでも無性にベーグルが食べたくなる。
元恋人とは、わたしの帰国とともにお別れをして、それっきり会うことはなかった。
たまに更新されていた彼のSNSも、いつからか全く更新されなくなって、フォローしあっている存在を忘れるほど、お互いの関係性は薄れていた。
しかし先日、その元恋人と、日本のとあるイベントで再会する機会があった。
お互いそれぞれの友達や知り合いがいるところで、わいわいした雰囲気の中、お互い変わっていないねとか、最近はどうだとか、仕事はどうだといった話を軽くして、その日はそれっきりでお別れをした。
もうこれっきりか、と余韻に浸っていると、翌日彼から今日帰国すると連絡がきて、そして、わたしに彼氏の有無を聞いてきた。
彼氏がいることを伝えると、「ニューヨークへ戻ってこないの?」と言ってきたり、寂しがったりと、彼はちょっとよりを戻したそうな、甘ったるい空気を出してきたのだ。
もちろん彼氏がいるので、速攻でさらっと断った。
だが、正直、全く心が動かなかったわけではなかった。
彼のジョークやライフスタイルが好きだった。
背がうんと高くて華奢で、フッと声を出した後、無声で肩を震わせる笑い方も好きであった。
意地悪な冗談をお互い言い合うのも楽しくて好きだった。
でもだからといって、よりを戻したいとは思えなかった。
もちろん今の彼氏と別れるなんて考えられないのもあったけれど、自分がニューヨークへ移住して、彼と過ごすということが全く想像できなかったからだ。
想像できたのは、あの硬い食パンの朝ご飯を一緒に食べるところくらい。
ただそれは未来の想像ではなく、あくまで過去の思い出の一部に過ぎなかった。
それは、彼とは未来がないと感覚で理解していたからだ。
アメリカ人は独立心と自由を何より大切にする国民である。
彼には、日本人同士の付き合い特有の甘える・頼るといった概念がないところが、ちょっと冷たく感じることもあった。
わたしが帰国してすぐの頃は、度々連絡がきたこともあったが、「ニューヨークに戻ってこないの?」とは聞いてくるものの、「戻ってきてよ」「一緒に暮らそう」とは絶対言わなかったのだ。
彼には、人生の選択は常に自分自身にある。他人がその選択の影響も、責任を持つべきではない、という姿勢が一貫してあるように思えた。
そのせいか、彼には弱音を吐いたり悪口を言ったりということができなかった。
それと、今回で気づいたことがある。
元恋人である彼と、彼氏がいるのにも関わらず、縁を切れないのは、わたしがアメリカ人でニューヨーカーだったら、こうなりたいという生活を彼が体現しているからなのだ、と。
わたしがなりたかった別のわたしが、おそらく元恋人なのだ。
彼の人生をたまに覗き見していたいような、歪んだ憧れがあり、だから一緒に暮らすという想像ができないのだ。
ニューヨークは今でも好きで、憧れの土地だ。
無性に食べたくなるあのベーグルも、安く売っている。
ほんの数年前までは、日本に売っているベーグルはベーグルじゃない、なんて否定していたが、今はそんな風には思わなくなった。
日本にあるもちもちで様々なフレーバーのあるベーグルもいいじゃないかと思えるようになってきたのだ。
むしろそれってすごくクリエイティブじゃないか。
わたしが段々母国を好きになってきたこともあるかもしれないが、何より、わたしは今の、日本に住むことを決めた自分の選択を気に入っているのだ。
だけど、人生にはifがいくつあってもいいと思っている。
ニューヨークにあのまま暮らすことを決めたらどうなってたか。彼とあのままいたら、とか。
まるで映画のララランドみたいに。
そんな妄想をしていたのも束の間、彼のSNSに今の彼女の写真がアップされていた。
お前、彼女いたんかい。
元恋人の調子の良さと気まぐれに振り回された自分が情けなくておかしくなって、
彼みたいな笑い方で、こっそり笑った。