こども目線ってなんだ
なんということでしょう。職場でずっと気付かれないようにしていたことが、今日とうとう見つかってしまった。
「あのさあ、こども苦手だよね?」
わたしがこどもへ接客したあと、一部始終を見ていた先輩に言われた。思いもよらぬことばに固まってしまい、「ええっと…」と目が泳いだ。
しかしこんな間があいてしまってからは、もう取り繕うことができない。観念した。
「すみません。苦手です。なんでわかったんですか?」
先輩は怒っていなかった。したり顔でニヤニヤして言った。
「だって、大人と接するときと言葉使い同じなんだもん。こどもの目線で話してないよ」
わたしはこどもが苦手である。
そもそも大きい音が嫌いで、こどもが大声で泣いたり、騒ぐ声を聞くと頭がきんきんするのだ。
しかしむしろ、こども自体が苦手というよりは、この「こども目線で話すこと」が苦手だという意味合いが強い。
その理由は、わたしの幼少期に関係している。
こども扱いされることが嫌いで、早く大人になりたいと思っていた。頭をぽんぽんとなでてくる大人、急にため口で話してくる大人はわたしにとって、敵だったのである。
例えば、幼い頃に母と買い物へ行ったときのことだ。
店員さんが母にはきちんとお客様対応をするのに、子供のわたしにはしゃがみこんで「お母さんと一緒にお買い物えらいわねえ」とニコニコ笑いながら声をかけてくることがよくあったのである。
敬語を使い話すことで、他人の敬意を表すことを暗黙のルールにしている大人たちは、こどもに対してはそのルールを無視する。面白くもないのに笑う。
こども目線ってなんだ。
まるで別の生き物みたいである。ペット扱いされているようで嫌だった。
その昔、日本語の変化についての本を読んだことがある。
昔はこどもに食事を「やる」と言っていたのだという。
子だくさんな時代は、ひとりひとり大事にというよりも「衣食住」を与えてやることが大切だったのではないかと思う。
しかし、あるときから「こどもはペットと同類なのか!」という論争が巻き起こり大人とおなじように、こどもの食事を「与える、食べさせる」というようになったらしい。
核家族が一般的になってきた時代背景が、関係しているのだという。
そして、のちにその流れはペットへいく。ペットに餌を「やる」と言っていたが、ペットに食事を与える、と言うようになったのである。
言葉が変わっていくものなら、こどもだって変わっていくものなのではないか。こどもが変わっていくなら、その扱いだって変わっていくはずだ。
それなら、わたしのこどもへの対応も間違っていないのではないだろうか。
今どきのこどもはスマートフォンやタブレット端末を使いこなす。元気にはしゃぎまわるよりも、微熱があるのか、と思わせられるほど大人しいこどもが多いのだ。そんなこたちはきっと、一人前に見られたいはずである。
こども目線ってなんだ。
幼い頃のわたしのような、生意気なこどもはどこかにいるのではないかと思うのだ。
わたしは、こどもを一個人として接する姿勢を変えないつもりである。
いつかこどもがわたしの顔をみて、泣き出す日まで。