印象派絵画とわたしの片思い
印象派画家の展覧会をよく目にする。
印象派絵画は19世紀後半のフランスで生まれた表現方法である。
チューブの絵具が誕生したことで画家たちは屋外で絵を描くようになり、光の表現が多彩になった。色とりどりの色と、厚く絵具を重ねたタッチが特徴の絵画である。
印象派のなかでもたくさんの表現方法と、派閥があるけれどわたしはよくわからない。
印象派始まりはモネの「印象・日の出」という作品からといわれている。
青い海と青い空から真っ赤な朝日が昇っている絵である。実物を見たことあるけれど、確かに美しい。つかの間の夜の静けさから、また活気のある港町の日常が始まる。初めてあの表現を見た人々は驚いたのではないだろうか、想像がつく。
わたしが小学生の時、ゴッホ展が近代美術館で開催されて見に行ったけれど、あのときの衝撃はまさに、当時の人々がモネの作品を初めて見た時そのものだったと思う。
「夜のカフェテラス」という作品がある。パリの夜、黄色いカフェのテラスと、石畳、闇は青で表現され、その闇にはいびつな黄色い星が浮かんでいる絵である。
こんなきれいな絵があるんだ、と思った。童話の挿絵のようで、全くリアリティとかけ離れたものであるが、「画家から見えるもの」はこう写るのかと思うとわくわくしたし、表現の個性には限りないんだと思うともっと知りたい、と思った。
ゴーギャンとゴッホは共同でアトリエを持ったことで有名である。数年前に、ゴッホとゴーギャン展があって、もちろん私は足を運んだ。
二人はすぐに仲たがいしてしまい、けんか別れしてしまうけれど短い共同生活の中、お互い触発されているのがわかる作品が残っている。決して無駄なことではなかったと思わせられる。
ゴーギャンの個展は、わたしが高校生のころだった。タヒチにわたってからの作品が特に好きだ。
胎児の版画の作品があり、よく印象に残っている。ゴーギャンの好きなところは実に仏教的というか、フランス生まれなのにキリスト教の概念がないところである。
展示の一番最後にあった、「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」の大きな絵からもそのことがよくわかった。
我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか - Wikipedia
大きな画面にタヒチの女たちの一生が描かれている。生まれてから老いるまで。生活と世界そのものである。この時代の西洋人で輪廻転生を理解した人がいたんだ、ということに驚いたし、油絵という西洋で生まれた表現にアジア的な概念が合わさった不思議な雰囲気に惹かれた。
スケールの大きさに、わたしは数分立ち尽くした。それだけの迫力と感動があった。もしまたあの絵が来るなら、何度でも見に行きたいと思っている。
絵画について語ることは好きだけれど、画像をWikipediaから引用することに抵抗がある。わたしが肉眼でみたものと同じではないからだ。雰囲気が伝わればそれでいいかもしれない。芸能人を実物で見たほうが素敵だというのと同じことで、絵画も実物を見たのほうが圧倒的に素晴らしい。
写真展に行った時も、図録と実物の色が違うのでいつも買うのに迷う。記憶の中の私自身の印象から図録を見ていくうちに印象がすり替わるのが怖い。微妙な差であるけれど、直接作品を見に行く、ということはやめたくないなあと思うのである。
わたしは見に行ってみたい絵がたくさんあるけれど、その中で一番見たい絵はクリムトの接吻だ。
画面いっぱいの金と男女二人、男は女にキスするところで、女は恍惚の表情をしている。小さい頃に習ったピアノ教室にレプリカが飾ってあって、行くたびにどきどきしたものだ。男女の秘密を見てしまったような気にさせられる。ふたりとも服を着ているけれど「めっちゃエロい絵」である。
ただ、どうもあの絵はウィーンの美術館に所蔵されており、門外不出なのだそう。あの傑作が全世界に回ってほしいと思うけれど、案外それは正解なのかもしれない。
クリムトが生まれたオーストリアで所蔵されて、その地で見れることが一番正しい鑑賞方法だと思う。
レプリカでもドキドキさせられたあの絵を、いつか見に行きたいとずっと思っているけれど、こうやって思い募らせて美化してしまうのも怖い。実際見たら心臓爆発するかもしれない。ずっとあの絵画に片思いしている。