人生と美について サマセット・モーム「月と六ペンス」
本屋でちらっと読んで買った本だけれど、絶対に好きな本だなという直感が当たった。
二十世紀前半、イギリスを代表する作家、サマセット・モームの小説である。
- 作者: サマセットモーム,William Somerset Maugham,金原瑞人
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2014/03/28
- メディア: 文庫
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この本と出会えたことは、大げさに言うなら運命だと思う。
それほどにわたしはこの本に感動し、共感したのである。
あまりに私自身思っていたことが書いてがあるうえ、深く感動をしたものは、説明することが難しいけれどせっかく読んだのだから、頑張って書いてみようと思う。
ストーリーは天才画家、ストリックランドの作品、生涯についての人々の考察から始まる。
謎に包まれた男だったのだ。
作家の主人公がストリックランドに初めて出会ったのは、ストリックランド夫人に招かれた夕飯会である。ロンドンで株式売買人として、家族とともに何不自由なく暮らす、つまらない男だと第一印象だったのだが、ある日忽然と姿を消してしまう。「パリに行くことにした。もうロンドンには戻らない」と置手紙を残して。
40歳を過ぎ、順風満帆と思われていた男が姿を消した。夫人は悲しみと怒りに震える「どうせ若いメイドに熱を上げたのだろう。お願いだからパリまで行って夫を連れ戻してくれないか。戻ってきても責めないと伝えて。」
夫人から主人公は一家族の大事な任務を受け、主人公も作家として、ストリックランドに興味が湧きパリへ飛ぶ。
パリで再会したとき、ストリックランドはみすぼらしい身なりで独りぼっちだった。
なぜ家を出たのか、主人公が尋ねると「絵を描くためだ」とだけ伝えた。
変人画家を追う、主人公の物語である。
まず、このストリックランドは人でなしである。人のことに全く関心を持たず、思いやりのかけらもない。冒頭の消えるところから始まり、終始最低な人間であることは間違いない。
そこに腹を立って読むと、この小説はただの「胸糞悪い小説」になると思う。ただ、そこがこの小説の本題ではない。
「一心不乱に絵を描く男が、どのような情熱に動かされ、生涯をかけて何を描きたかったのか」ということと、「その画家と様々な人々の人生観、美について」がテーマである。
ストーリーも場所が変わったり、流れも大きく変わるが、重要で一番の主題がそこである。
そして、この小説は訳者あとがきでも書いてある通り、会話のテンポが、実によくキャラクターを描いているところだ。全くその通りだ、と思ったので細かい描写を省くため、訳者あとがきから引用したい。
「もう奥さまのことは愛していないんですね」
「かけらもね」
(中略)
「奥さまを捨てたのは、女性が原因ではないんですか?」
「冗談じゃない」
(中略)
「じゃあ、どうして奥さまを捨てたんです?」
「絵を描くためだ」
(中略)
「おれは、描かなくてはいけない、といっているんだ。描かずにはいられないんだ。川に落ちれば泳ぎのうまい下手は関係ない。岸に上がるか溺れるか、ふたつにひとつだ」
(中略)
「あなたは、最低な男だ」
「これで、いいたいことはみんないってしまっただろう。夕飯を食いにいこう」
ふたりのやり取りが実に面白い。それは訳が素晴らしいからというもの大きい。
他、好きな二人の会話シーンがあるので引用する。
5年後、作家が仕事の都合でパリへ行き、ストリックランドと再会するシーンである。
「ときどきは昔を思い出すことだってあるでしょう。昔といったって、七、八年前のことではありません。もっと前のこと、奥さんと出会って恋をし、結婚したころのことです。はじめて奥さんを抱きしめたときの喜びを、覚えていないんですか?」
「過去などどうでもいい。大事なのは永遠に続く現在だけだ」
それをきいて、わたしはしばらく考え込んだ。抽象的な表現ではあったが、ストリックランドのいわんとすることはわかる気がした。
「幸せですか?」
「ああ」
わたしは口をつぐみ、目の前の男をしげしげとながめた。ストリックランドは私の視線をまっすぐに受け止めていたが、ふいにその目からからかうような輝きがのぞいた。
「おれに不満なんだろう?」
「まさか」わたしは間髪入れずに答えた。「大蛇に不満を抱かないのと同じです。それどころか、あなたの精神には興味があります」
「作家として単純に興味があるのか?」
「ええ、単純に」
「それなら、おれに不満がないのも当然か。いやな男だ。」
「だから気が合うんでしょう」
名作に嫉妬するのはお門違いだけれど、このユーモアと奇妙な友情はかっこよすぎる。文才にうらやましいなあと思った。
わたしが常に思っていること、それは人の感情は複雑で矛盾しているということだ。サマセット・モームはそれを描くのがとてもうまいし、その人間模様が一番美しいとわたしは思う。
彼自身、その矛盾を愛していたのではないだろうか。とても丁寧に、じっと内面や人々を観察していることが文章からうかがえる。
ただ華やかで、均整がとれた美しい絵はずっと見ていると飽きる。けれど、すこしの醜さ、不安になるいびつさが混ざるとより美しく、飽きずにみられるのと同じである。
例えば、アンリ・ルソーの「夢」。あの絵を美しいと思う人にはこの小説は特に響くと思う。わたしはあの絵を見るため、MOMAに何回通ったかわからない。
ストリックランドは歴史上の天才画家をモチーフにしていることは、画法や時代からわかるけれど(訳者あとがきでも書いてあるので確実だと思う)ここで言ってしまうと、イメージがその画家になってしまうので、明かさないでおく。
わたしはこれから先、何回もこの小説を思い出して読むだろう。とにかく、この小説の良さを余すところなく伝えるのは難しい。
ただ、読んでほしいということだけは絶対に伝えたい。