旅にでる 伊豆編 1
もう先週末のことになる。友達とレンタカーを借りて伊豆へ一泊二日の旅行をした。
わたしはペーパードライバーのため、友達二人が交代で運転をしてくれ、とても助かった。長旅の運転どうもありがとう。
旅の一番の目的は海水浴だったが、他にもあった。イズフォトミュージアムにいって、星野道夫展に行くことである。
初日、首都高を抜け、山々に囲まれた町に入ってすぐ、イズフォトミュージアムの星野道夫展へ行くことにした。
フォトミュージアムの入り口には段差があり、その真上には藤が連なりお出迎えしてくれた。
植物の短いトンネルを抜け、建物に入ると、内装はまるでノグチイサムミュージアムのようであった。
コンクリートの打ちっぱなしになっており、中庭には緑と大きい岩が見える。現代的なつくりである。
入ってすぐの右手にある、コンクリートの壁のような引き戸を開けると、そこが展示会場だ。
星野道夫(1952年ー1996年)とはアラスカを探検し、自然を追い続けた写真家だ。
入ってすぐに、カヌーから撮った写真があった。
前方には山々と幅の広い川が広がっている。静寂に包まれた自然界へ、これから星野道夫が入っていくところだろう。
カヌーのオールも一緒に写っていた。
きっとオールを水面にたらすと、あたりはオールの漕ぐポチャン、とした音しかしないだろう。
物音というより、獣の気配がするのみである。
星野道夫が突き進んでいく自然界は、美しいだけではなく襲い掛かってくるものであり、自身も獲物になって進んでいくということなのだ。
展示会のオープニングにぴったりだ、と思った。
大きく水面に上がったクジラ、カリブーの大群、原始林の森。どの写真も大迫力だった。
打ちあがったクジラのうろこにびっしり入り込んでいる海水、カリブーが超えていく草原、すべての生き物を自然が受け入れているような気がして、その大きな自然と壮大さに怖くてクラクラした。
鳥取砂丘を見に行った時、だだっ広い砂丘と日本海と、打ち寄せる突風に足が震えて怖くなったことを思い出した。
いつだってわたしは、大自然が怖いのだ。
何万年も変わっていない、あるいは少しずつ変わっていっているが変わっていないように見える壮大な風景を目前にすると、自分がちっぽけな砂の一粒になった気持ちになるのである。
そして、星野道夫のことを考えた。
わたしだったら足がすくんでしまうことも、冒険家にとっては武者震いだったのか、自然を受け入れているからこそカリブーの大群にも、グリズリーにも向かっていけたのか。
星野道夫がグリズリーに襲われ、亡くなる最後の瞬間をどうやって迎えたのか。
恐れよりも好奇心が勝るってどういうことなんだろう、と気になった。
友達についていった展覧会であったが、自然に対する恐怖について改めて考えることができたのは良かったし、星野道夫についても興味が湧いた。
展覧会を見た後にミュージアムショップで星野道夫の本を買った。「旅をする木」というエッセイである。
ひとつの偶然の出会いから、新しいことを知り、興味がどんどん膨らんでいくことが大好きだ。読み終えたら、また感想を書きたいと思う。
宿に向かう帰り道に、天城山という標識を友達と見た。
わたしは知らなかったのだが、石川さゆりが歌った、あの有名な「天城越え」という曲は、伊豆の天城山をうたったのだという。浄蓮の滝という標識を見つけ、立ち寄ることにした。
旅行は、偶然の出会いの連続である。
滝の脇には、天城越えの歌詞が書かれた石碑があった。
「寝乱れて隠れ宿 九十九折 浄蓮の滝 舞い上がり揺れ堕ちる 肩の向こうにあなた 山が燃える」
こんなに激しい歌詞だったのかと、読んで初めて知って驚いた。
浄蓮の滝に立ち寄ったおかげで、わさび沢も見ることができた。
川の脇にある、もうひとつの「わさびの川」。
わさびは、きれいな水でしか生きられないという。浄蓮の滝から流れた川の水で生きるわさびたち。こういう、自然の摂理というか、理路整然としたものを見ると気持ちがいい。
次の日記は海水浴について少しだけ書こうと思う。