旅にでる 年末年始・東南アジア編 5 トゥール・スレン虐殺博物館
シャム(現タイ)とベトナムの二重属国時代*1、それを抜け出すため王自ら支配下にはいったフランス植民地時代、やがてフランスから独立を果たしたシハヌーク王の国政、独裁政権下で起こったクーデターで軍事政権発足。
平和な時代はどこにも見当たらない。
軍事政権を倒そうと、亡命していたシハヌーク王は『カンプチア(当時のカンボジア)民族統一戦線』と称し、フランス留学経験者が党首のインテリ集団が起こした政党「クメール・ルージュ」と手を組み、内戦を起こす。
激しい戦いの末とうとう軍事政権を破り、首都プノンペンを取り返すことに成功する。
しかし、やっと平和が訪れたと安堵したのもつかの間。
クメール・ルージュは理想の国家をつくるため、首都に住む人々へ銃を突き付けトラックに乗り込ませ、地方へ追い出した。
1975年、現代史上最も残忍な独裁政治といわれるポル・ポト政権の始まりである。
党首のポル・ポトは、ルージュという党名の通り毛沢東の共産主義を意識していた。
ポル・ポトが掲げたのは「原始的な農民の暮らしへの回帰」である。首都プノンペンを無人化し、農民として地方へ送り込み強制労働をさせた。
通貨・市場を廃止、労農政治教育以外の学校教育・宗教活動を禁止。
銀行も映画館も寺院も病院も壊した。社会システムを根こそぎ滅ぼしたのだ。
強制労働によって大量の餓死者を出したが、恐ろしいのは、犠牲者のほとんどが強制収容所で亡くなったという事実である。
首都の中心部にあるトゥールスレン(通称S21)は、収容所のひとつだった。
現在は当時の残酷さを伝えるため、博物館としてそのままに残している。
収容所といっても、かつては高校だったところで、校舎は拷問室、独房、雑居独房とそれぞれ棟によって分けられた。
スパイ容疑をかけられ、連れてこられたのは僧侶、医者や教師など高等教育を受けた知識人、フランス語や英語を話せる者、外国人、さらには眼鏡をかけているという理由にまで至る。
そのだれもが、賢く善良な国民だった。
家族単位で連れてこられ、犯してもいない罪を自白させられ、キリング・フィールドと呼ばれる処刑場に送られたのだ。
当時トゥールスレンは極秘の場所だった。連れていかれるときは目隠しと手錠足枷をかけられたのである。抵抗したら、その場で殺された。
どれほどの人々がこの学び舎の卒業生だっただろう。どれほどの人々が、この場所で悲惨な最期を迎えると予想できただろうか。
(校庭の遊具も拷問器具として使われた)
A棟の独房は鉄製のベッドが置いてあった。床には赤黒い血の跡が染みついていて、壁には政権崩壊当時にそのベッドに放置され亡くなったひとの写真が掛かっていた。
連行され没収された衣服、拷問器具など、当時収容所にあったものはすべて展示されていたが、わたしは苦しくてすべてを見ることはできなかったし、写真を見返すことなんてできないと、一枚も撮らなかった。すべて夢であってほしかった。
信じられないことに拷問を行っていたのは、地方に住んでいた貧しい少年たちだった。
収容所の所長でドッチと呼ばれた人物は、彼らを連れてきて洗脳をしたのである。
ドッチは少年たちに使命だと教え込み、かつて自身が旧政府に共産主義者として拷問を受けた経験をもとに教えたのだ。
はじめウサギを人に見立て拷問し、徐々に慣れさせたのだという。
見学のときに借りた日本語の音声ガイドでは、生き残ったひとの証言が吹き込まれていた。
目隠しをされたまま収容所に連れてこられたとき、飢えたオオカミの雄叫びのようなものが聞えてきた。まるで彼らは、新しい獲物がきたと、大喜びしていたようだった。
政権崩壊時、所長のドッチは「虐殺の証拠のフィルム・文書をすべて破棄して逃げるように」と上層部から命令を受けていたが、処分する時間が間に合わず大急ぎで逃げ出した。
そして、その膨大な写真は収容所に放置されたため、今日トゥールスレンで見ることができるのだ。
一人ひとりの証明写真から、やせ細り横たわる人々、拷問中に亡くなった人々の姿などおびただしい数の写真が展示されている。
博物館として見学可能になったとき、行方不明の家族を探す人々でごった返したそうだ。
友人の付き添いに来たひとは偶然にも、じぶんの親族を見つけたという話が残っている。
音声ガイドで犠牲者や、その遺族たちの実体験が聞けた。
アメリカから世界一周旅行へ行った若く明るい兄が、カンボジアでスパイと疑われ処刑されたこと。
フランス在住のカンボジア人である父が「新政府を樹立したからあなたの力を貸してほしい」とクメール・ルージュからきた手紙を信じて帰国したが、二度とじぶんたちのもとに戻らなかったこと。
のちに博物館へいき母と手分けして父の写真を探し、見つけたこと。
政権崩壊後、幼心に助けにきてくれたひとを敵だと思い、たったひとりで校舎を逃げ回ったこと。同時に連れてこられた母を探して、泣き叫びながら走ったこと。
さらに、政治研究の専門家のインタビューも吹き込まれていた。
生き残った看守たちは、口をそろえて「自分は悪くない。与えられた使命をこなしたのだ」と答えたという。
それは、全体主義に共通する心理で、アウシュビッツ収容所を統率していたアイヒマンも同じことを言っていたのだ。
「大量虐殺は、すべての工程が分担されている。自身がシステムの、ひとつの歯車として機能するため罪の意識がない」と解説していた。
ドッチは、かつて熱心でやさしい数学教師だったそうだ。
共産主義に傾倒し一員となり、所長につくと、こまかく囚人を記録した。膨大な書類をトゥールスレン近くにあった自宅に持ち込むほど、業務に没頭したのだという。
彼の恩師が収容されたこともあった。
しかし、例えだれであっても情けをかけることはなかった。
秩序の乱れをぜったいに許さず、ときには拷問の末囚人を殺してしまった看守をこんどは罪人として収容したほどである。
3年8か月の間、トゥールスレンで収容された人々は2万人に及び、生きて出てこれたのはたったの7人。
収容所されたのは、スパイ容疑をかけられた人々だけではないのだ。
ドッチは亡命し、のちに身元が割れ捕まったのだが、裁判を受けてもなお「わたしは悪くない。与えられた仕事をしたのだ」と無実を主張したのだという。
当時、アメリカはベトナム侵略の作戦として、第二世界大戦で使用された量を上回る爆弾をカンボジアに落とした。
他国の攻撃や侵略、長引く内戦がつづく環境で、民族意識や道徳心を育てることはできたのか。
もしもわたしが渦中にいたら。なにも信じられるものがなく、明日がやってくるかわからない状況で、正気を保つことなんてできない。
ポルポト政権崩壊から、まだたったの40年しかたっていない。