フィクションだからって何でもありなのか サマセット・モーム「お菓子とビール」
サマセット・モームの「お菓子とビール」を何週間も前に読み終わったのに、日課であるブログに書かなかったのは「この小説って、傑作だ!って言いきっていいの?」という、モヤモヤした気持ちがあったからである。
わたしはモームの小説が好きだ。最後までわくわくさせられるし、キャラクターが瞬きをするところまで想像できるほど、人の描写が細かいからだ。
なにより物の見方がひねくれているくせに純粋、というあまのじゃくが魅力だと思う。
けれど、お菓子とビールはちょっと違う。
今回は愛のある批判というスタンスで書きたい。過去最高に長いですが、最後までお付き合い頂けると幸いでございます。
あらすじ
作家のアシェンデンは、あるとき作家仲間のロイから「ドリッフィールドの伝記書くことになった」と聞かされる。
ドリッフィールドとは、最近亡くなった国民的作家のことである。ロイはドリッフィールドの妻である、エイミから伝記執筆の依頼されたのだという。
アシェンデンは昔、ドリッフィールドと最初の奥さんであるロウジーと親交があった。そのためロイから、名が売れていないころのドリッフィールドについて教えてほしいと頼まれるのであった。
そのことをきっかけにアシェンデンは、ケント州の海岸沿いの小さな町の郊外、ブラックスタブルで、ドリッフィールドとロウジーと過ごした日々を思い出していく…
イギリス時代背景
回想はアシェンデンが10代のころから始まる。その当時イギリスはヴィクトリア女王統治時代(1837年ー1901年)で、厳しい規律と階級社会だった。
それは、牧師であるアシェンデンの伯父が「あの作家と話すな」と毛嫌いするほどであったし(ドリッフィールドの階級は低かった)、男たちといちゃつくロウジーを町の人々は白い目で見ていて、その夫婦を避けていたほどだった。
アートの規制も厳しかった。女性ヌードを表現するときはルネサンスのような神話的な題材のみとし、リアルなものを描くことなんて不適切だと批判される時代だったのだ。
そんな世間一般にみて「関わってはいけないひとびと」とアシェンデンは仲良くなり、影響を受けるのである。
その後、彼は医大生になりロンドンへ下宿することになった。時代はエドワード7世(1901年ー1910年)が国王になる。
前時代の反動で厳しい雰囲気は和らぎ、第一次世界大戦前の華やかな時代だった。
そして人妻ロウジーと関係をもつのも、ちょうどこのころ…
ほとんどがアシェンデンの回想のため、時代背景がわかれば小説の面白さが倍増する。
華やかな時代に、ロウジーはロンドンの町で男たちと一晩中遊びまわるのだ。この頃の雰囲気が、個人的にすごく好き。
モームの批判
モームがこの小説で言いたかったこと、それは作家と、芸術の批判である。
批評家たちがドリッフィールドを退屈だと評価するところから引用する。
エリートは人気というものを軽視する。凡庸の証だというのだ。しかし、後世の人たちが選ぶのはある時代の未知の作家ではなく、よく知られた作家からであるのを、彼らは見逃している。永遠に記憶されるに値する傑作がついに日の目を見ずに終わることもないだろうが、後世の人はその噂すら知らずにいる。
後世の人が今日のベストセラーを屑箱に入れてしまうこともありえようが、選ぶとすると屑箱の中から選ぶしかないのだ。
たしかにそうだなあと笑った。昔の本を選んでいるつもりでいてもそれは、かろうじて残ったベストセラーの中からなのである。
そして「美について」の批判が続く。
さらに「そもそもドリッフィールドが偉大な作家になったのは、長寿であったからだ」と手厳しく批判しているのだ。包丁で一刺しするみたいにえぐい。
ロウジーについて
ところで、タイトルの「お菓子とビール」は、シェイクスピアの「十二夜」という句の中で「人生を楽しくするもの」というところからつけられているらしい。
この「人生を楽しくするもの」は、ドリッフィールドの最初の妻であるロウジーのことだ。たくさんの批判と対照的に、彼女はいつも美しく描かれる。こんな感じに。
「彼女は欲望を刺激する女ではなかったのです。誰もが彼女に愛情を抱いてしまいます。彼女に嫉妬を感じるのは愚かなことです。
譬えて(たとえて)みれば、林間にある澄んだ池でしょうか。
飛び込むと最高の気分になれます。その池に浮浪者やジプシーや森番が自分より前に飛び込んだとしても、少しも変わらず澄んでいるし、冷たいのです。」
ロウジーはスー・ジョンズという、実在した舞台女優をモデルにした、ということが有力な説だそうだ。
モームはロウジーのような、美しくて奔放なジョーンズと八年間付き合っていたらしい。しかしモームはプロポーズをするものの、断られてしまったのだ。
気になったのは、モームは同性愛者であったということである。
ジョーンズにプロポーズしたのはバイだったからなのか、真相は分からないけれど魅力的な女性だったということは間違いないだろう。
そういえば「ティファニーで朝食を」のホリーも、ロウジーのような女性だった。美しくて自由奔放な女性って、人気なんだなあ。ただ、こういう振る舞いをするって覚悟がいることだと思うし、絶対に真似できないけれど。
この小説、実はロウジー以外でも実在モデルはたくさんいる。
ドリッフィールドは、トマス・ハーディがモデルとされているし、ロイはヒュー・ウォルポール*1という作家がモデルらしい。
わたしが冒頭で「傑作と言い切っていいのか」といったのは、ロイの描写が理由である。
モーム、やりすぎじゃない?
ある夜、書評のために「お菓子とビール」を読み始めたヒュー・ウォルポールはすぐに自分が風刺されていると気付き、ショックで一睡もできなかったそうである。
すぐにモームに手紙で抗議したがモームはキアには様々な人物を組み合わせて創造したものであり、モーム自身も多分入っていると回答したのであった。
しかし、ウォルポールがモデルだというのは、彼を知る多くの作家たちが直ちに気付いたのである。
(中略)八十歳記念版の序文では、はっきりとウォルポールを念頭に置いたことを告白している。
(解説 行方昭夫より引用)
※ キアとは、ロイのこと。
ウォルポールとロイは司祭の父のもとに生まれ、ケンブリッジ大学を卒業したところも同じで、多作であったことや講演会を積極的に行ったことも共通している。
もはやノンフィクション。
モームは、「ウォルポール」から「ロイ」に名前を変え、そのまま小説のキャラクターにしてしまったのだ。
では、ロイはどんな作家かというと「世渡り上手な紳士」がいちばんしっくりくる。
才能はないけれど、持ち前の社交性で作家の世界をすいすい泳ぎ、有名になった人物なのだ。
小説で細かく描写されているけれど、今回はその一部を引用する。まー、これがひどい。
ロイが文壇で次第に頭角を現してくる過程を結構感心して見てきた。その道程は、これから文学の世界に入ろうとしているどんな青年にも大いに参考になるだろう。
あんな僅かな才能であれだけ高い地位を得た作家は私の同年代には見当たらないと思う。
ロイの才能たるや、健康に機敏な人なら毎日服用するがよいと宣伝されているサプリメントのスプーン山盛り一杯分くらいだろうか。
続いてロイがアシェンデンに、若い頃のドリッフィールドについて聞いている場面から引用。アシェンデンのセリフから始まる。
「洗いざらい全部、美点ばかりでなく汚点もすべて出す方が面白いと思わないかい?」
「それはやろうたって出来ない。そんなことをしたら、エイミが口をきいてくれなくなる。僕の慎重さを信頼したからこそ、伝記を書いてくれと頼んだのだから。紳士らしく行動しなくてはならない」
「紳士と作家を両立させるのは困難だよ」
「僕はそう思わないな。それに、批評家ってものを知っているだろう?作家が事実を示せば、彼らは皮肉だと批判するんだ。皮肉屋というのは作家にとってマイナスだ。(中略)
今度の伝記は、ヴァン・ダイクの描いた肖像画に似てるな。情緒豊かで、貴族的な卓越性があり、ある種の威厳もある。大体見当つくかな?八万語くらいだろう」
彼は一瞬美的な瞑想で恍惚としているように見えた。
心に見えるのは、高級紙に余白をたっぷり取って鮮明で上質な活字で印刷した、手に取ると軽いすっきりしたロイヤル八折本である。きっと金文字で飾った、滑らかな黒クロースの装丁も見ているのだろう。
だが、数ページ前に述べたように、彼は普通の人間に過ぎぬので、美的瞑想にいつまでも耽ることは叶わなかった。率直な微笑みを浮かべた。
ロイを馬鹿にしすぎてかわいそうだ。
実はこの前に、「美」についてコテンパンに批判しているので、ロイはまさしくアシェンデンが愚かだと思っている、美の概念をそっくりそのまま話しているのである。恐ろしい。
モームはひねくれものだから、ウォルポールのことが好きだったのかもしれない。そうだとしても、キャラクターとしてロックオンされたのは同情する。
残念ながら、ウォルポールが1941年に亡くなったあと、すっかり忘れられてしまった。そのため、わたしもこれまでウォルポールのことを知らなかったけれど、モームのせいもあるんじゃないの?と思った。忘れられたのは、もちろん作品のせいだろうけれど確実に手助けしただろう。
どんなに面白い作品を作りたいと思っていたとしても、特定の人を侮辱することってどうなんだろうか。
ロイの描写は悪ふざけしすぎた。せめて実在のウォルポールの経歴とロイを変えても良かったんじゃないかと思う。
モームが「あいつ才能ないよ」とこき下ろすのは人としてかっこわるいなと思ったし、がっかりした。もし、その人のことを好きだと前置きしたとしても、である。というかその方がたち悪い。
ただひとつ、肩を持つとするとアシェンデンは、モーム自身であるという点である。
アシェンデンが幼いころに両親を亡くし、イギリスの牧師の伯父の家で厳しく育てられ、医師を目指したところはモームそのもの。
「英国諜報員アシェンデン」という作品も、「お菓子とビール」と主役が同じアシェンデンという名前で、戦時中にモームが諜報員だった経験を基にした小説である。
モームも「アシェンデン」というキャラクターで小説に登場しているのだ。
現実社会を小説で書くことがモットーだったのかもしれない。現にモームは実体験や実在の人物を基にした小説が多いからだ。
リアリティがあったからこそ、モームの本は屑箱に残ったし、その中からこうやってわたしも手に取り読むことができたである。
それでも「作品がよければ、それですべて良し」という考えも違うんじゃないかと思う。
こういうとき、わたしは折り合いがつかなくていつもモヤモヤしてしまう。
名前が売れていようが、発言にどんだけ説得力があろうが、特定の人をこき下ろしていい理由にはならないはずだ。
きれいごとだけ言っていたらつまらないかもしれないけれど、他人を尊敬する気持ちは忘れたくないなと思う。
ひとを馬鹿にすることは「お菓子とビール」ではないのである。