のぐちよ日記

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東京で分断される人々 山内マリコ「あのこは貴族」

この前の京都旅行で、生まれも育ちも京都である友達と晩御飯に行った時のことである。

待ち合わせは京都駅で、合流後に河原町へ電車で行くことになったのだが、そのときはまだ、食事をするお店が決まっていなかった。

なぜなら「京都いくから、その日予定空いてたらご飯いかない?」とわたしが急に連絡したものだから、お店の予約をしていなかったとのこと。

申し訳ないと思ったが友達は気をきかせて、電車に乗る前にお勧めのお店へ予約の電話をしてくれた。

 

お店の方が予約状況の確認のため、電話は保留状態になったのだが、飲食店は忙しい時間帯もあって、少しそのまま待たされた。

わたしと友達は手持ち無沙汰になったので、駅の壁に張ってある路線図を眺め、それについてあれこれ話していたのだ。そのとき、友達が携帯を片手に「この辺はお金持ちエリア、ここからは庶民エリアやで」ともう片方の手で路線図を指差し言った。

彼が言うそのお金持ちエリアと庶民エリアには、一駅かそこらしか間がなく、「こんな一駅で違うのか」と驚いたし、その友達が電話の合間で、あまりにも自然に京都の階級社会のようなものを説明したので、それにも驚いた。

当たり前のように階級社会を受け入れているのかと思うと、昔から根づいている文化を感じ、感動したのと同時に「内と外」という京都の価値観は本当にあると実感した。

 

しかし、思えば東京も同じようなものであると気付く。

中央区千代田区は代々のお金持ちや権力者がいて、港区には経済を回している派手なお金持ちがいる。世田谷区はおしゃれな人たちや芸能人たちが住むなど、23区の中に住み分けがされているのではないだろうか。少なくとも私はそう感じている。

そして23区外の東京についてはあまり話に上らず、~市出身の人は「一応、東京生まれだよ」と自虐的に言う。

わたしたちはどこに生まれ、住んでいるかで、どういうコミュニティに属しているか無意識に判断してしまうのだ。

 

昨日、山内マリコの「あのこは貴族」を読み、つながるものがあるなと思った。

正真正銘「いいとこのお嬢さん」華子と、地方出身で大学で上京してきた美紀というふたりの20代後半の女性を軸とした現代小説である。

それぞれ東京で暮らすが全く接点のない二人を引き合わせたのは、イケメンで家柄の良い「青木幸一郎」という男である。彼をきっかけに、二人の物語は急展開を迎えていく。

 

華子と美紀の違いはシーンによって、徹底的に比較されている。

例えば、お正月の過ごし方。華子はタクシーで帝国ホテルに向かい、一家でホテルの豪華なおせち料理をいただく。美紀は新幹線で地元に帰省する。最寄駅から地元愛の強い弟のスポーツカーに乗せてもらって実家に帰り、母が作るおせち料理をいただくのだ。

たくさんのシーン、ロケーションによって二人の出生と生活が浮き彫りにされ、対比されていく。

 

華子は現代版「細雪」だといえる。細雪では四姉妹の話だけれど、華子の家は三姉妹だし、お見合いをするシーンがある。華子がおとなしい性格であるところも、お見合いをしまくり、なかなかお目当ての男性に巡り合えないところも、細雪の三女の雪子と重なる。

 

幸一郎の家も華子と同じで、びっくりするくらいお金持ちだし、本当にこんな世界はあるのかと思わせられる。浮世離れしすぎだ。

しかし、華子が身に着けている服に「ハロッズのワンピース」が出てくることで、リアリティが増す。

ハロッズとは、ナイツブリッジインターナショナルというインポートのアパレル会社が下ろしていた品の良いブリティシュスタイルのブランドだ。

今はもうなくなってしまったが、現在はエリザとオールドイングランドというブランドでを扱っており、どちらのおなじブリティシュブランドである。

そして、それらはシーズンごとに帝国ホテルで催事を開催しているのだ。

このことは、華子が帝国ホテルによく来ている人間だということを、自然に表しているのである。

また、他に身に着けていた服でいうと、フォクシーのワンピース。こちらもいかにもお嬢様といった感じの可愛らしいAラインのワンピースだ。値段は全く可愛くないけれど。

その点から華子の世界は実在していると思わせられるのである。

 

そして思うのはたとえ東京出身者であっても、東京の中で分断されているということだ。

わたしは東京生まれであるが、華子や幸一郎の世界を全く知らない。

地方出身者である美紀と、考え方が一緒なのである。

 

普段関りもしない生粋のお坊ちゃん・お嬢ちゃんが、この国を回している。衝撃的であると同時にぞっとした。

日本に、ましてや東京に、生まれながらの貴族たちがいるのである。

 

ただ山内マリコさんが言いたいのは、生まれや住んでいる場所だけではなく女同士でも分断しているということである。

わたしたちは「いつか結婚するし、子供をつくるだろう」という価値観を刷り込まれている。

事実婚をした女性、結婚を選ばなかった女性、子供を持つことを選ばなかった女性は何故そうなのかということを周りによく聞かれその都度、納得がいく説明をしなければならない。

異性でなく同性が好きであるなら、事前に自分の恋愛対象を言っておかなければ「今彼氏はいないの?」と他愛のないおしゃべりの中で聞かれるのだ。

それ以前にきっと「カミングアウトするかどうか」という高いハードルもあるだろう。

結婚願望を持ったことがないわたしは、この先きっとたくさんの人になぜ独身であるかを説明をしていかないといけないのかと茫然と思い、げんなりするのである。

 

「自分」というのは周りにいる数人を合わせた人格だとどこかで聞いたことがあるが、まさしくそうだなあと最近思う。人は人と関わる限り、同じような考えをする人たちが集まったコミュニティができて、知らず知らずにそこに属しているからだ。

あるところにコミュニティができ、それが大きくなる。そこに埃がたまると伝統でき、閉鎖的な社会として育つ。

もしそこに愛情があれば、自分が改革者になるしかないのだ。

息苦しいと思う人が風穴を開けて「改革」をしていくしかない。そして、埃をかぶっていることに未だ気付かない人の頬をひっぱたくのだ。

 

しかし一番楽な方法は「逃げてしまう」ことである。使命感のないわたしは、こちらを選ぶだろう。

電車を乗り換えるように路線をかえ、自分が住みやすい場所をみつけ、その最寄り駅で降りるしかない。そこの居心地が悪くなったら、また電車に乗ればいいのだ。終着駅はどこになろうが、線路が続く限りどこにでも行ける。

 

小説の中でも、最終的に華子と美紀はどちらかの道を選ぶことになる。

 

ただいえることは、そのどちらを選んでも勇気がいる選択ということだ。立つ鳥跡を濁さずというわけには、なかなかいかないものである。

 

そして、この本を読み終わって「自由に住む場所を選べる現代は幸せなのか、不幸せなのか」ということを考えた。

それこそ100年くらい前の日本人は、一つの場所で生まれて死んでいった。

村はほぼ農民が暮らしていて、都や大きい都市で違う階級の人がいても、生活をしていくうえでお互い目に入らなかっただろう。

歴史を動かす人や一部の人をのぞき、ほとんどの人はなんの疑問も抱かず、ずっとそうやって生きていたのだ。

 

代々土地を守り、生活をする昔の生活を「農耕文化」というなら、住む場所や求めるものによって居住地を変えていく現代人の生活は「狩猟文化」である。ある意味、原始的な流れだと思った。

それなら、選ぶ自由がある現代のほうが幸せなのかもなあ。幸一郎のように、「なにも気付かないでいることが幸せ」ということもあるけれど。

 

「人は太古昔から変わらない」という、身もふたもない結論に至ったわたしなのであった。

 

 

あのこは貴族

あのこは貴族

 

 

 

 京都旅行についての記事↓

 

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細雪についての記事。ただしドラマ版↓

 

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