のぐちよ日記

映画、本、アート、日々のことをちまちまと。

「マディソン郡の橋」は中年の危機についての映画だなと思った

マディソン郡の橋は1995年公開のアメリカ映画で、同名の小説が原作である。批判を受けながらも、口コミで広がり有名になったそうだ。

映画の主演は、メリル・ストリープクリント・イーストウッドである。批判を受けた理由は不倫ラブストーリーだからではないかと思う。

 

 

 

主人公のフランチェスカアイオワ州の専業主婦。ロバートは独身(バツイチ)で各地を転々としているカメラマンである。

 

二人の恋愛、フランチェスカの不倫は、ロバートがローズマンブリッジを取材するため訪れたところから始まり、その地を離れるまでのたった4日間の出来事であった。

 

それから数十年後、フランチェスカが亡くなり、彼女の娘のキャロラインと息子のマイケルがフランチェスカの遺品を整理したことから判明し、物語が始まる。

 

敬虔なカトリック家庭で、先に亡くなった夫とのお墓があるにもかかわらず、「ロバートと同じローズマンブリッジの上から散骨してほしい」というフランチェスカの遺書に驚くキャロラインとマイケル。その遺書と共に、フランチェスカの日記が出てくる。

その日記から、フランチェスカの恋愛、生涯を明かしていくストーリーである。

 

「閉鎖的な田舎町で生涯を終えた専業主婦が、4日間だけ不倫したことを亡くなってから子供たちに明かした話」というのが冒頭からわかり、それがストーリーである。

 

不倫を美化するなんて!しかも子供たちに話すなんて!といってしまえばそれまでの映画だ。

 

しかし、内容はもちろんそれだけではない。(クリント・イーストウッドがおじいちゃん過ぎるというのは置いといて…)

この前テレビ放映をしていたので、たまたま見たのだけれど、わたしはただの不倫恋愛映画ではなく、「中年の危機」がテーマの話なんじゃないかなと思った。

 

中年の危機(ミッドライフクライシス)とは、がむしゃらに仕事や育児をして40代を過ぎた人々が、やっと生活が安定した矢先「自分の人生はこのままでいいのか」と立ち止まり、思い悩む現象である。

キャリアを積み重ね、役職を与えられた人が、部下を育てる立場になり「自分が若い頃のように思い通りにいかない」と世代間のギャップに悩みだすそうだ。

 

第二の思春期といえばそれまでだが、根は深くうつ病になってしまう人も多いらしい。放っておけない問題である。

 

中年の危機について、わたしは「中年クライシス」を読んだ。わかりやすくて面白かったのでお勧めです。

 

 

中年クライシス (朝日文芸文庫)

中年クライシス (朝日文芸文庫)

 

中年もそろそろ終わり、老年に向かう年ごろの女性から、つぎのような夢を報告されたことがある。

「夕日が美しく沈んでゆくのを見ていて、ふと後ろをふりむくと、もう一つの太陽が東から昇ってくる」

実は、「二つの太陽」の夢を報告した同年輩の女性はほかにもおられ、深く胸を打つものがあった。

(「中年クライシス」より引用)

まさに、フランチェスカはそうだったのではないかと思う。

 

フランチェスカとロバートが結ばれた後、フランチェスカが自身の故郷、イタリアについて語るシーンがある。

退屈だが、人並みの幸せを手に入れたはずのフランチェスカにとって、もう一つの太陽はロバートであった。失われた青春を取り戻したいと思ったのである。母としての葛藤がありながらも、ロバートに惹かれていく。

 

しかし、最終的にフランチェスカは「今の自分」を肯定する。ロバートとの恋愛を夢であったと割り切り、「生きている間」は沈んでいく夕日を眺めることだけにしたのだ。

 

事の顛末を冒頭で説明してしまうこの映画は、一見退屈だが二人の距離感の描き方と、心理描写が秀逸で最後まで飽きさせない。

 

ほとんどがフランチェスカの仕事の場である、ダイニングで物語りが進むのだが、はじめ、ダイニングテーブルの両端の席に座っていた二人は、時がたつにつれ徐々に距離が近づき、隣同士に座る。心の距離をとても分かりやすく描いた演出である。

 

また、度々フランチェスカが電話で話すシーンがある。大体の映画やドラマで、電話のシーンは説明をしすぎるが、マディソン郡の橋はそうではない。

フランチェスカの日常や心の移り変わりを、自然に表現しているのである。

もし、この映画をみる機会があったら、ぜひ注目してみてほしい。

 

時代も立場も違う。けれど、わたしもいずれ同じように中年を迎える。

老いを実感し、「本当にこのままでよいのか」「自分の人生はなんだったのか」と悩むだろう。個人差はあるが人は同じようなことで悩むものである。

 

そのとき、マディソン郡の橋を思い出して改めて見てみたいなと思う。

 

人生が折り返し地点に差し掛かり、自分のできることが限られてきて、自分の環境がそう簡単には変えられないと気付いたとき、わたしは、その時の自分を肯定したい。そういう生き方をしたいと思った。