キザだけどかっこいい「こだわり」のエッセイ 伊丹十三「ヨーロッパ退屈日記」
最近「地味弁」が流行っているらしい。
しきりは最小限、おかずは2品でOK、「インスタ映え」は考えないというのが地味弁の定義らしい。昔いわれた親父弁当である。
少し前まであんなにキャラ弁がもてはやされたのに、真逆のブームが起きるのは本当に面白い。
共働きが多いうえ、子供たちのためにキャラ弁を作るのは大変だろうなあと遠巻きで見ていたので、やっと無理のないものが流行ってよかったなあと思う。
今や日本も外国人がたくさんいるし、海外のことは簡単にインターネットで調べられる時代。文化もボーダーレスになった。
けれど、もしかしたらキャラ弁、地味弁のように真逆なブームがいつか起きるかもしれない。
混ざり合っていない、昔ながらの、純粋で由緒正しいものが流行る時代がくるのかも。
そんな場合にそなえて読んでおきたい(起きないかもしれない)、本物について書かれたエッセイ、伊丹十三の「ヨーロッパ退屈日記」である。
伊丹十三(1933年-1997年)は1984年の「お葬式」という作品で映画監督デビュー以来、「タンポポ」「マルサの女」「スーパーの女」など、後世に残る作品を生み出した映画監督である。
ブラックジョークがきいていて、お色気シーンがあるというのがわたしの伊丹十三作品の印象である。小さいころに金曜ロードショーで「スーパーの女」を見た時はお茶の間で見るのが気まずかったのを覚えている。
わたしは映画監督のイメージが強かったのだが、ヨーロッパで映画俳優として作品に出たこともあるようだ。そのころ、1965年頃に書かれたエッセイである。
伊丹十三はほかにもエッセイを書いているが、ヨーロッパ退屈日記は、ヨーロッパを周ったときの、その土地の風土やファッションなど書かれている。
まず読んだわたしの感想は、「ものすごいキザ」。
徹底的な本物志向のこだわりと英国ダンディズムの称賛が続いて、~しなければならないが続く。
ダンヒルのガス・ライターというものを尊敬している。機能と形という点において、古今稀に見る成功作だと思っている。簡素でありながら威厳があり、しかも豪華である。
まさに「ライターの王」である。
(中略)
この寸分の無駄もない作品に、麗々しくイニシャルを彫り込むという神経、これは絶対に許すことができないでありませんか。しかも、チャチな赤革のケースとは何事ぞ。物を大切にするというのは、そういうことではないのです。
(「ダンヒルに刻んだ頭文字」より引用)
「イングリッシュティーの淹れ方」ではこう語っている。
英国式のお茶、というのは即ち、先ず紅茶を濃く淹れるね。次にティー・カップに冷たい牛乳をそそぐ。その上に紅茶を注いで、濃すぎる場合は熱湯で加減するわけだ。これにお砂糖を入れる。そうして、この順序は絶対に狂わしてはいけない。ポットは無論暖めておく。牛乳も、冷たくなくてはいけない。コンデンスト・ミルクなんか用いるのは全く、論外である。
とってもめんどくさそうな人と思わないだろうか。ちなみに私は思った。
ライターに名前を刻もうが、どう紅茶を飲もうがいいじゃないか。
とはいえ当時、海外旅行は一般的ではない時代である。
刊行されて読んだ人々はなるほど、かっこいいと思っていただろうなあと想像して読んだ。
しかし、伊丹十三は「古典音楽コンプレックス」ではこう語っている。
人生において優れたものに対する「畏れ(おそれ)」を持たない人、こういう人は何をやらせても駄目なのだ、とわたくしは思う。
得意だとかいうチャーハンだってまずいにきまっているのだ。
その通り。大変失礼いたしました。
こだわりなんて、どうでもいいと思ってしまったのを後悔した一文である。
心を入れ替えた私は、エッセイに書かれている「スパゲッティの食べ方」を読み、そのやり方にならって食べている。
どんな食べ方か気になる方、本物志向にこだわりたい方はぜひ、ご一読下さい。